「ビッグスリー」で知られる米国の自動車メーカー,GM社,フォード社,クライスラー社が苦境にあえいでいる。この状況に,米国政府が救援の手を差し伸べるか否かで国内が揺れていると報道されている。今から40年ほど前,ビッグスリーの日本進出を恐れ,怯えていた日本の自動車業界には,到底想像もできなかったことだ。

 そして,仮に米国政府が救援法案を提出し,議会で承認されたとしても,関連企業のほとんどが潰れてしまったビッグスリーが,早急に立ち直るとは私には思えない。

 1965年ごろから10年もの間,トヨタ自動車は生き残りを賭け,全社一丸となってジャスト・イン・タイムを目指した。我々宇部興産の機械部門のような機械メーカーに対しても,無茶苦茶とも言えるような,自動化や省人化のための改善要求を突き付けた。だが,我々としても,それを達成しなければ“メシの種”の受注が得られない。だから,死にものぐるいで改善を続けた。

 ところが,1973年のオイルショックとともに日本の高度成長は止まり,これらの受注も激減。これで我々は,国内の仕事をほとんど失った。しかし,生きていかねばならない。我々はそれまで経験したことがなかった輸出に挑戦しようと考え,たまたま引き合いがあったソ連(現ロシア)のモスクワに飛んだ。だが,彼らはドイツやイタリアなどのヨーロッパ製の機械を購入しており,「実績のない日本の機械など買えない」と言われるだけで,ろくに話も聞いてもらえなかった。

 我々が生き残るには,世界に市場を広げなければならない。そのためには,米国で実績を作る以外に道はない。そう決心した我々は,背水の陣で米国市場に打って出る決意を固めた。当時のビッグスリーは,クルマを安く造るには,賃金の安い所で生産すればよいと積極的に工場の海外進出を行っていた。こうした背景から,日本メーカーがビッグスリーと取引を開始するチャンスがあるのではないかと一縷の望みに懸けたのだ。

 先にフォードからプレス機の受注を得ることに成功した小松製作所の好意ある紹介を得て,我々は担当者をフォードに派遣した。そして,「我々のダイカストマシンはトヨタの厳しい要求に応え,自動化や省人化が進んでいる」と懸命に説明するのだが,「日本の賃金が安いからクルマが安くできるのだろう」と言うばかりで全く信用してくれない。

 それならばと,我々はトヨタに「御社で稼働する我々のダイカストマシンをフォードに見学させてくれないか」と依頼した。すると,トヨタは「見ただけでは彼らが真似することできない」と快諾してくれた。こうして,我々はフォードに対し「ぜひ,日本に見に来てほしい」と伝えた。

 フォードは日本に来てくれた。そして,日本メーカー各社を回り,日本の省人化された機械設備の実情を見て驚き,我々の機械を購入してくれた。今から30年も前のことである。これもトヨタで10年間鍛えられたお陰だと今でも感謝している。