実際、生というのは消費者を大いに惹き付ける言葉のようである。で、生とは何なのか。生魚とか生肉とか生ビールとか、そんな延長で考えればそれは「加熱処理をしない」ということだろうと思い込んでいた。だから生キャラメルは、牛乳や砂糖を加熱しない方法で濃縮、固体化したものであろう、そうすることで風味を損なわないようにしているのだ、と勝手に想像したのである。それはうまそう。ぜひ一度食べてみたい。

 ということで早速、注文しようと当該牧場のホームページをのぞいてみると、あった。丁寧に、生キャラメルについての解説書もある。読むと、「牛乳をコトコト銅鍋で煮詰めるところから”生キャラメル”造りは始まります」とあるではないか。ここで一気にわけがわからなくなってきた。生といいつつ、ものすごく加熱しているのである。じゃあ、何が生なのか。さっぱり分からない。生もののもう一つの特徴に「すぐに腐る」ということもあるが、これがそうだとも思えない。

どこまでやれば手造りか

 さらに引っかかることがある。このキャラメルのパッケージにも書かれている「手造り」という表現だ。これも人々を惹き付けてやまない言葉ではあるが、そもそも手造りとは何なのか。手で鍋を掻きまぜているということなのだろうか。それとも「人の手が加わっている」くらいの軽いノリなのか。だったら、電動装置のスイッチを手で押しただけでも手造りなのか。そもそも、手で造ると何がうれしいのか。いやいや、このキャラメルに限ったことではない。何やらやたら目立つ「生」とか「手造り」とかいうコピーをみるたびに、このところ何だか微妙に腹が立つのである。異常なのだろうか。

 先日も、「技のココロ」の取材準備のために鋏についていろいろ調べていたら、「手造り鋏」なるものを販売しているサイトを見つけた。その能書きを読むと、何だか素晴らしい切れ味のすばらしい鋏らしい。ふむふむ、それは素晴らしい。で、と読み進んで行くと、「それはなぜか」と自ら問い、そして答える。「なぜなら、手造りだから」。え?それだけかよ。さっぱりわけがわからない。それのどこがどの程度手造りなのかという問題はさておいたとしても、こんな「手造りなら何でも素晴らしく、機械で作ったものは何でもダメ。当然でしょ?」と暗に主張しているような表現をみると、なぜかむらむらと腹が立ってくるのである。理系だからだろうか。

 普通に考えれば、鋏のような精巧なものは、ヘタな職人が手で造るよりキチンとした加工装置を使って造った方が、よほど精度、性能の高いものができるはずである。ただ、一般的には、日本橋の木屋とかで売っている手造り品に比べれば、手造りではない量産品の鋏は使い勝手や性能、耐久性という点で劣っていることが多いのかもしれない。しかしそれは機械で造られたからでなく、量産性を高めるために工程を簡素化したり、コストを抑えるために素材を落としたりしているせいだろう。手で造っても、同じように工程を省いて素材を落とせば、同じく、いやそれ以上に悲惨な結果が待っているにちがいない。