佐藤が戦後、海軍大学校の教官をしていたとき、梨羽時起(なしはときおき)という海軍少将があそびにきて、
「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」
 と、梨羽はかれ自身実戦に参加しているくせにそれがふしぎでならないようなことをいった。
(略)
「六分どおり運でしょう」
と、佐藤はいった。梨羽はうなずき、僕もそう思っている、しかしあとの四分は何だろう、と問いかさねた。佐藤は、
「それも運でしょう」
といった。梨羽は笑い出して、六分も運、四分も運ならみな運ではないか、というと佐藤は、前の六分は本当の運です、しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、といった。

 その、四分にかけた人為とは何であったのかということを司馬氏はこの長い小説で解き明かそうとしたのではないかという気がする。もちろんそこには勝利の方程式は書いていない。しかし、人は苦難に直面したとき、どのように振舞うべきかという、史実をながめただけでは湧き上がりそうにもない多くの教訓に満ちている。

 けれども司馬氏が本当に説きたかったのは、どうやって小さな勝利を拾ったかということよりも、その後の悲劇がなぜ起きてしまったかということなのかもしれない。運で勝ったと言われれば、「天然」であることが分かったときと同じように、ちょっとガッカリである。でも、運を運と認める態度を捨てた瞬間に、人や組織は誤った「必勝の奥義」を自らでっち上げ、それを得たと思い込んで傲慢になりがちだ。そのことが、この国をあの無謀な戦争に駆り立ててしまったのではないかと。

 あまりに大きな犠牲を払って得られた教訓である。よくよく自らを戒めねばと思う。