ウソの価値

 まったく用意もしていないのに心にもなく「ぶぶ漬けでも」というのは、まあウソである。けれど、「食事どきだしそろそろお帰りいただけませんか」などと剥きつけに言うより、そんなウソでも言った方が人間関係はうまくいく。それは、京都というかつての大都会で暮らし続けてきた人たちの知恵だったのではないかと思う。ややこしいので、京都人以外にはぶぶ漬け戦術は使わんどいて欲しいと思うけど。

 会社でだって、そんなことがあるではないか。部長が「あいつは給料高いけど使えんから、どこかへ飛ばすか」などと思いつく。で、辞令が出て人事異動。その送別会で部長は、「実に惜しいが、どうしてもと先方から乞われ、それが会社のためということで泣く泣く判を捺した」などとあいさつすることだろう。事情はうすうす察しつつも、当人もそのウソで何となく救われたような気になったりする。

 そんな知恵を日常生活に織り込み細かなところまで行き届けさせたというのが、京都の独特な文化とか風習というものなのではないかと勝手に考えている。つまり、人と人、組織と組織がいがみ合わず、いかにうまくやっていくかということに細心の注意を払いつつルール化された社会が京都なのではと。もちろんかつての日本では、どこも同じような風習がみられたのかもしれないが。

 そんな知恵が、ビジネスという場に及んだ結果が、「専業」ということなのではないかとにらんでいる。専業とは、たとえばマイクロソフトのように、もっぱらある分野、ある製品、ある技術に絞り込んで事業を進めるパターンをここでは指している。一般に、新規分野にどんどん進出して規模の拡大を図る総合メーカーの対語として専業メーカーという言葉がよく使われる。