その制度は、藩という後ろ盾が消えても各産地で継承されてきた。今日でも圧倒的多数の漆器は、この分業というシステムに乗って生産されている。その長い歴史に裏打ちされた常識に立ち向かっていったのが本間である。もちろん、そこには大きな困難があったはずだ。それを知りつつなお、そうせざるを得なかった事情とは何なのか。

「いやね、自分は塗りから戻っていったわけです。仕事をしていても『あれ?』と思うことがあるわけです。前工程では、どうしてこんなことをやっているのかと。で、聞いて見る。でも『昔からこうやっているから』と言うばかりで本当の理由が分からない。仕方がないから、前工程も自分でやってみる。すると同じように『あれ?』と思うわけです。そして同じように聞いていってもその根拠が分からない。そうやっていくうちにどんどん上流に遡っていって、気がついてみたら漆の木を植えるところまでやっていた」

 そうさらりと本間は言う。けれど、決してさらりとできることではない。漆器の工程数は実に多く、その工程ごとに高度な技が要求される。そのことも、漆工芸というものが分業というやり方に終着せざるを得なかった一つの理由なのだから。(文中敬称略)