蒔絵虫籠食籠。江戸末期に活躍した蒔絵師、中山胡民の作とされる。

 さらには、それを販売する業者までが産地と一体になって存在する。すなわち、消費者の求めに合致した器をデザインし、それを職人たちの手を借り実際の商品として仕上げ、販売する「問屋」である。例えば輪島ではこの職種を「塗師屋」と呼ぶ。こうした問屋には、ニーズの把握力だけでなく、企画力、さらには工芸品に関する見識や思想といったものが求められる。それがあればこそ、職人達を指導し卓越した商品を生み出すことができるのだ。

 こうした機能が重要であるがために、漆器の産地は必ずしも漆や木地の材料となる木材の産地とは一致しない。流通コストなどの点からは、地方の、漆や木材産地近傍で漆器を製作する方が有利だろう。けれど、地方の漆器産地はいつしか需要者から遠い存在になりがちだ。その結果としてニーズの把握が甘くなる。

谷田蒔絵八角重。鮮やかな朱漆地に密陀絵(みつだえ)による草花図を華麗に描く谷田蒔絵は、江戸中期に活躍した徳島藩蜂須賀家のお抱え蒔絵師、谷田忠兵衛の創案とされる。

 こうした事態に陥らないよう、問屋だけを大需要地=文化的先進地域に移す手はある。けれどもそれが長引けば必ず、職人を動かすべき問屋が「仕事知らず」「現場知らず」になっていく。だからこそ、コスト的には不利なはずの京都や江戸がかつて、精良な漆器の産地として栄えてきたのだろう。先進的な需要地に身を置き厳しい消費者の目にさらされながら、時代の流行と同期し、最先端の商品を生み続けてきたのである。

 こうした漆器の分業体制は、時代を経ながらより細分化され、各産地に根付くかたちでこれまで存続してきた。もちろん、大きなメリットがあったからである。


 その一つは、効率の向上。ごく限られた作業を来る日も来る日も繰り返し、技を磨きに磨く。作業内容を絞り込むことによって習熟度を高めやすくするのである。この結果として高度に熟練された職人技は、圧倒的な完成度と量産性をもたらす。

 もう一つ、重要なメリットがあった。技術の秘匿である。鎖国下にあった江戸時代、日本は世界であり、藩は国であった。各藩は税収の要である米の増産を図るのはもちろん、それと並行して産業を振興し、産物を他藩へ「輸出」することによって現金を得て、藩の財政を改善しようと心を砕いた。その対象産物として、他藩では生産できないが故に高い付加価値と強い市場競争力を示す特産品に目が向くのは必然といえるだろう。

 漆器は重要な特産品の一つとみなされ、主要産地を抱える藩はその育成に力を注いだ。名だたる名工を招聘し職人を指導させたり主要原材料の他域への輸出を禁じたりするだけでなく、卓越した職人を藩が「お抱え」として抱え込むこともめずらしくなかった。

 このような努力の結果として構築した技術体系と量産体制は、深く秘匿し他藩、他の産地に真似されないようにしなければならない。そのために、漆器に限らず常套的に使われた手段が「分業」だった。ある工程のみに従事する職人は、それのみに専念しており、全体の工程を熟知しているわけではない。こうしておくことで、「頑張って何人かの職人を引き抜いたぐらいでは製法の全貌を知ることはできない」という状況を作り上げたのである。