そのような気の遠くなる時間,細菌が複雑な生物に進化せず,細菌であり続けたのは,なぜなのだろうか。本書にはいくつかの「解答」(仮説)が示されている。一つは,「自然選択の仮借なき支配をあからさまに受けている」(本書p.159)ことが大きい。細菌は多くの場合,お腹を空かせており,食べ物をじっと待って過ごしている。運良く食べ物にありついたときに,いかに素早く栄養を取り込んで,いち早く増殖するかが勝負である。多くの場合,複製のスピードが遅い細菌は淘汰される。このため,複製のスピードを上げるためにゲノム(その生物が持つ全ての遺伝情報)サイズを小さくした(余分な遺伝子を捨ててきた)細菌が生き残ってきた。

 もう一つは,細菌はエネルギーの生成や栄養物を取り込むのに,外側の細胞膜を使っている点が挙げられる。細菌が複雑化してサイズが大きくなると,体積に対して表面積の割合が小さくなるので,エネルギー効率が悪くなり,小さな細菌との生存競争に負けてしまうのである。

「すべての細胞の夢はふたつの細胞になることだ」

 ここで,ふと考えてしまうのは,そもそも細菌はどのような動機で一生懸命増殖しようとしているのだろうか,ということである。しかし,この問いに意味はないようだ。「すべての細胞の夢はふたつの細胞になることだ」(フランソワ・ジャコブの言葉,本書p.158)ということのようである。または,ふたつの細胞になることが夢である存在が細菌だ,ということになろうか。

 そこに「利己性」の起源があるということなのであろう。細菌は,他の細菌を押しのけてでも,自らの複製を図ろうとする利己的存在である。医薬品として人間の役に立っている抗生物質にしても,もともとある細菌が別の細菌の細胞膜を破壊して自らの生存を確かなものにするという利己的行動の一種である。ただし,細菌は細胞膜を持っているという物理的な理由やエネルギー的な制約から,互いを食い合うという争いをすることがないだけ争いはそれほど熾烈でないとも言える。むしろ,他の細菌の排泄物を食料にするという協力型のネットワークを組んで仲良く暮らしているという面もあるという。各々は利己的に行動しているが,結果として全体を見ると利他的になっているということのようだ。細菌の世界では,利己的な行動と利他的な状況がうまくバランスがとれているといっても良いかもしれない。複雑な生命には進化できないが,ある平和な平衡状態にあるということなのであろう。

二人の出会い

 20億年くらい前に,たまたまある「事件」が起こらなかったら,今でも地球は細菌の惑星だったのかもしれない。それはそれで細菌にとっては幸せなことだったのかもしれないが,とにかく起きてしまったから,筆者もこれを読んでいる読者の方もここにいる。その「事件」とは,ある細菌「メタン生成細菌」がミトコンドリアの先祖に当たる「α-プロテオバクテリア」を取り込んで,融合した生命体をつくったことである。本書では,「二人のなれそめ」をストーリー仕立てで次のように書いている(本書p.81)。