人間とは,その「祖先」である細菌の時代から,利己的な部分と利他的な部分を持っており,その「葛藤」の歴史がすなわち「進化」ということなのだろうか---。生物学者で科学ライターでもあるニック・レーンが書いた『ミトコンドリアが進化を決めた』(みすず書房)という本を,そんなことを考えながら読んだ。

 筆者は前回のコラムで,近代資本主義社会とは,人間が根源的に持っている利他的な部分と利己的な部分が葛藤しながらも,それを無理やり折り合いをつけながらなんとかやってきた社会である,と書いた。

 人間は,単細胞の細菌から多細胞となり,より複雑な哺乳類となり,さらには人類となった後は,小規模な共同体をつくり,さらには社会や国家といった大規模な組織を作ったが,細菌の世界も現代の複雑な社会でも,利己的な部分と利他的な部分の葛藤が起こるというのは変わりがないのかもしれない。それは,ある平衡な状態から進化するためには,異質なもの(例えば,「利己的」なもの)を投入して平衡を崩し,その結果両者が葛藤することになっても,なんとか融合,協力し合っていかなければならない,ということを意味しているようにもみえる。

「POWER,SEX,SUISIDE」

 この『ミトコンドリアが進化を決めた』は,細胞内でエネルギーの生成を司る小さな器官であるミトコンドリアに関する,最新の科学的知見を紹介した本である。といっても,学術書ではなく,ミトコンドリアが生物が進化するうえで,いかに重要な鍵を握っているかを,ミステリー仕立てのように巧みに謎解きしていく読み物だ。原題が「POWER,SEX,SUISIDE」であるように,人間を含めた多細胞生物が,どのようにして生きるエネルギーを得てきたのか,性はなぜあるのか,そしてなぜ死ななけれならないのかといった難問に対して,どこまで生物学が迫っているのかを解説している。筆者のように生物学の素人にとっては「目から鱗」の連続であった。本書は,500ページ近い大作で,素人向けとは言っても内容は専門的かつ多岐に渡るが,その内容を筆者なりに「利己」,「利他」という視点でざっとながめてみよう。

 遡ること約40億年。隕石が衝突し,激しい雷雨が襲い,灼熱の火山が頻繁に噴火し・・・といった過酷な環境下で,最初の生命,つまり自己を複製でき,活動のためのエネルギーを生み出すことのできる生命体,つまり今の細菌に近い生物が誕生した。火山活動が活発な地域に見られる海底の熱水噴出孔(地熱で熱せられた水が噴出する割れ目)の周囲に,鉄と硫化水素が鉄硫黄化合物(硫化鉄)として析出し,それが有機反応の触媒となって,糖とアミノ酸を生成し,それが生命の特徴である自己複製を可能にする遺伝子につながっていったとする説が有力だという。こうして,地球上のあらゆるところに,多様な細菌が住みついていって,誕生してから20億年くらいは細菌だけの世界が続いた。