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20代で始まった修業


左久作作「錬り小刀」。複数の種類の鉄を重ね、熱しながら折り返して鍛造してゆくと、複雑な文様が出た鉄ができる。「錬り物」と呼ばれるそれを地金に使った道具類は、左久作の看板商品のひとつ。裏にはタガネで銘が切られる。

「親父と意見が食い違うこともあるんです」

 鍛冶仕事が一段落して、父の喬庸(たかのぶ)が席を外したのを見計らったように、喜幸(のぶゆき)がこう切り出した。先ほどの焼入れ作業中のふたりのやり取りを指しているのだ。父は焼きが甘く入ったので、もう一度焼入れし直したほうがいいと言った。これに対して、息子は、むしろ硬めに入ったくらいだからそのままでいい、と真っ向から意見が対立していたのである。最終的に作業者の息子喜幸の意見が通った。

 決して父に対して、意地を張っているわけではない。ただ、一人で最後まで仕上げた品物を左久作(ひだりひささく)の銘で出すようになって月日も経った喜幸にも、自分なりの見方がある。それを意見できるようにまでなった、ということだろう。

 喜幸は、大学を出て商社に勤め「海外赴任の話も来ていた」(喬庸)にも関わらず、わざわざ退社して鍛冶の道へと入った変わり種だ。

「鍛冶屋になった経緯ですか。実際言うと、中学校卒業してからすぐ始めても構わないと思っていたんですよ。そうしたら親父に高校くらい卒業しろと言われて。高校出たら今度は、大学行けってなって。大学卒業したら、今さら鍛冶屋やらなくてもいいだろということになって、勤めに出たんです。でもどうしても、この仕事がやりたくてね。始めることにしたんです」

 父、喬庸は、もともと医者になる夢があった。しかし、当時は親の仕事を継がないと言える雰囲気は皆無だった。自らが必ずしも願って鍛冶を継いだ訳でなかった経験から、息子には好きなことをやらせよう、と考えていた。さらに言えば、報われることの少ない厳しい仕事であることを痛感して、鍛冶を継ぐことは反対していたようだ。

 ところが、夫婦で刃物組合のヨーロッパの視察旅行に出ている間に、息子は会社を退職して、日本に帰国したら、仕事場に座って待っていた。