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穴大工という職人

左久作(ひだりひささく)の二代目、池上喬庸(たかのぶ)の手による打刃物の数々。オーダーメイド専門の誂え鍛冶として、鑿(のみ)、槍鉋(やりがんな)、小刀に鉋など多種多様な刃物を手掛けてきた。

 かつて東京には、穴大工なる職人集団がいた。穴屋とも呼ばれる彼らは、建築用木材のほぞ穴掘りを専門とする大工だった。

 日本の伝統的な建築は、釘を多用せず、仕口、継ぎ手と呼ばれる「木組み」で木材同士を組み上げて構築していく。突起部分の「ほぞ」を差し込むのが「ほぞ穴」である。もちろんその穴は正確に掘られていなければならない。しかも必要な数は膨大で、他の工程に比べて作業時間も相当に長くかかった。そのためか、ほぞ穴掘りに特化した大工たちが、各地で自然発生的に出現し、やがて集団化していった。古いところで、慶安2年建立の浅草寺本堂の棟札には、穴屋の組の名前が記されているそうだから、江戸時代中期にはすでに集団化していたようだ。関西など全国にいたが、技術的水準が最も高かったのは、江戸そして東京の穴大工たちだったとされる。彼らの仕事は、柱材にまたがって猛烈な速度で穴を掘るという荒々しいものだ。手許が狂うと、鋭い鑿(のみ)の刃が股に突き刺さる。穴大工たちの内股は、傷だらけだったという。



 専門職である彼らの道具は、鑿とそれを叩くための鉄製の槌、玄能(げんのう)だけ。大体100寸から130寸余り(3メートル強)、一般家屋に換算すると約5坪分のほぞ穴を1日で掘って一人前とされたという。使う木材や穴の幅などの条件によっても変わるが、普通の大工でこの速度を確保することはかなり難しい。だから、さまざまな現場で彼らの専門技術は必要とされてきたし、手間賃も一般の大工より良かった。

 しかし、他の多くの在野の職人技と同じように、戦後しばらくして、彼らへの需要は減っていった。建築ラッシュが落ち着き、機械化が進む時代の流れの中に残ることができなかった彼らは、最後期は電動のほぞ穴掘り機械を担いで現場を回ったという。諸説があるが、専門職としての穴大工は、昭和50年前後にはいなくなったようだ。そして、あらかじめ工場などで穴加工を施したプレカット材が普及しほぞ穴を大工が掘る機会自体が減ってしまった現在、穴大工たちの名はもとより、彼らが高め洗練させてきた技術も伝承されず、消え去ってしまったかのように見える。

 しかし、玄能の柄のすげ方をはじめとする、彼ら独自の道具の調整法は、今も一部の道具の使い手たちに受け継がれている。穴大工の法則にしたがって、使い手の指と手の長さに従って、ゆるやかにカーブを描く柄をすげた玄能は、効率よく力が鑿に伝わり、しかも疲れにくい。道具使いの上手たちはそう口をそろえる。