一部の評論家は、魯山人が主要な(美的ではなく製造的な要素として主要な)部分を職人任せにしていることを指して「ニセ陶芸」と弾劾し、ある種の陶芸家たちは「ロクロの一つも満足に挽けないくせに威張りやがって」「あの程度の仕事なら自分でも簡単にできる」と豪語した。魯山人の下で働いていた職人ですら、同じようなことを思っていたらしい。現に魯山人の没後、仕掛かり中だった作品などを職人たちが自らの手で完成させ、焼成して売り出すという無謀なことをやっている。だが、評判はさっぱりだったと当時を知る人が書いていた。

 魯山人の元にいた、魯山人よりも技量は高いであろう職人の何人かはその後、陶芸家として独立した。けれど、かなり早い時期に袂を分かった荒川豊蔵をのぞけば、今日の評価は魯山人に及ぶべくもない。

 つまり、こういうことではないか。優れた鑑識眼さえあれば技量をもつ人のアシストによっていい作品が作れる。けれど、技量があっても鑑識眼がなければいい作品は作れない。本当にそうかということで、高い評価を得続けている陶芸作家について調べてみると、ほとんどが素晴らしい鑑識眼を備えた「魯山人型」である。「東の魯山人、西の半泥子」と称される川喜多半泥子などは、本業は銀行の頭取であった。いわゆる昔流の風流人、文人で、趣味の一つとして古陶磁をコレクションし、引退後の楽しみとして陶芸に手を染め、ついには本業以上の高名を獲得してしまった。私もかつて、彼の作品と収集品の両方を見る機会に恵まれたが、どちらも本当に素晴らしいものだった。

「技術に自信」の根拠

 技量だけでなく鑑識眼も身に付けなければダメ。そう言ってしまえば、ごく当たり前のことである。けれど、実はそのことが、しばしば忘れられているのではと思うのである。例えば、鑑識眼があって技量がない人は、ロクロに向かうだけで自身に技量がないことを強く意識し、それを何とかリカバーしようとあがくだろう。けれど、技量はある人は、ロクロに向かえばすいすいと作品ができてしまう。それが魅力的かどうかを問わなければ、実に立派な作品ができてしまうのである。で、自身の鑑識眼について厳しく問うことを、ついつい忘れてしまうということか。