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当代松林豊斎作「紅鹿背茶碗」


初代陶作作「燔師茶碗」

 永楽家の茶陶がそうであるように、京焼の窯元は多彩な技法を使い、陶器も磁器も、日本古来の作風から中国風、朝鮮半島風のものまで、茶人に愛されてきた陶磁器すべてを守備範囲としてきた。京都市内で薪を燃料に使う窯の操業が禁止されたこともあり、朝鮮風の陶器や無釉陶(むゆうとう)など土の味わいを生かした作品は減り、色絵など装飾を施したものが増えてはいる。そうしたものだけを狭義に「京焼」と呼ぶ風潮もある。

 それでもなお、バリエーションは多彩で、技法だけで広義の「京焼」であることを同定することは難しい。「作風が京都らしい」という以外に、京焼を特徴付ける要素はないのである。


二代陶作作「鹿背茶碗」

 ただ、それは唯一京都にだけに見られる傾向だともいえるだろう。他の窯業地では、そこで採れる土を使い、その地で培われてきた技法と様式を専一に手掛けるのが一般的だ。京都から車で30分ほどの距離にある宇治ですら、その例外ではない。この地で少なくとも400年ほど前から焼き続けられてきている朝日焼は、基本的には絵などの装飾にあまり頼ることなく、土の味わいを生命線として今日まで愛され続けてきた茶陶である。

 「京都は近いですし、当家の代々は京都で修行をしてきているということもあるので、京風の感性とか作り方というのはあります。けれど、京都とは違う宇治の土を使った地方窯であるということもある。つまり地方性と京都風みたいなものが融合したところに朝日の特徴があるのでしょう」

御本茶碗。17世紀のいわゆる遠州時代に朝鮮半島で焼かれたもの。前面をくぼませるいわゆる「前押し」は、遠州の「好み」である。

 そう話すのは、朝日焼窯元の十五代目、松林豊斎である。朝日焼の初代とされる陶作は慶長年間に宇治の地で室町時代から続く宇治焼を受け継ぐかたちで朝日焼を始める。その名が不動のものとなったのは、二代陶作の時代とされる。大茶人、小堀遠州の指導と庇護を受け、遠州が提唱する「きれい寂び」を体現する茶陶として朝日焼は「遠州七窯」の一つに数えられるようになった。その作風は、茶道衰退期の苦難をしのぎ、今日に至るまで一軒の窯元の手によって守り伝えられている。