視点や論理の違い

 なぜ、こんな行き違いが起きるのだろうか。筆者の見方はこうだ。それは視点や論理の違いである。

 第一は、世界の問題への「理解と共感」である。世界が共同して取り組んでいる問題への危機感の共有と言い換えてもいいだろう。同じ、省エネの向上を目指すにしても、環境技術を一層磨くにしても、その目的に世界と同じ思いを重ねなければ、世界から見ると「それらは単に日本だけの都合で日本が自分のために取り組むもの」にしか見えない。危機感と目標を共有する日本の姿勢を世界は求めているのである。そのことへの理解なしには世界とコミュニケーションはできない。世界から見て、世界が理解できる言葉で世界に問わねばならないのだ。独りよがりの主張には誰も真剣に耳を貸さないのである。

 第二は、国としての覚悟である。確かに日本には世界にない素晴らしい省エネ技術がある。世界がノドから手が出そうに欲しがっている環境技術である。技術者の方々が知恵を絞り努力を重ねて得られた偉大な成果だが、それらはあくまで素材。ピースにしか過ぎないのである。それらを包み込むビジョンと、それらを束ねて活かす政策、国の意思としての戦略の確立。これらが見えなければ、海外から見て日本の生き方が見えないのである。見えなければ評価できない。極論すれば、現実はまだまだであっても、これからの将来に向かって目に見える政策を打ち出す国ほど評価が高くなる。

 第三は、論理の展開である。解決すべき問題に対し、欧米はまず旗を立てる。ビジョンを立てるのである。しかも、なぜそう考えるかを、科学的知見などの説得性や論理性の高いストーリーで打ち出す。そしてそのビジョンを実現するためのキャパシティビルディング(人材や技術や社会制度など)を優先して考える。そして最後に何をやるかを考える。

 ところが日本は、国も企業もすぐに「何をやるか」を考えてしまうようだ。世界が共通の理解を持つ基盤となるビジョンや能力開発の話は捨象してしまう。これでは同じことをやっても世界からの理解は得られないだろう。日本の視点からは「こんなに良いことを実績としてやっているのに世界が評価しないのはおかしい」となるのである。