1993年,日亜化学工業が青色LEDを開発した。

 日経産業新聞が徳島支局発のニュースとして,日亜化学工業が青色LEDの開発に成功したことを報道したのは1993年末のことである。日経エレクトロニクスの記者だった私は,この記事を早朝,自宅で目にするや電話に飛び付き取材を依頼,数日後には徳島へと飛んだ。同社の広報担当者によると,地元新聞,地元支局の記者以外で同社を訪れたジャーナリストは私が初めてだったらしい。担当者はこう言った。

 「ご存じないでしょうが,うちはかなり有名なんですよ。この辺ではね」

 何でも,1カ月近くも夏休みを取ることで有名な会社なのだという。夏は暑い。だから休もうというのが社の方針らしい。そんな地方の材料メーカーが,全世界の有力企業を出し抜いて,とんでもない快挙を成し遂げた。普通に考えれば,とても信じられることではない。

誰も信じてくれない

 応接室に通されると,まず発光している青色LEDを見せられた。明るい。これは本物だ。身震いする思いだった(図1)。

 「先日,これを東北大学の西沢潤一先生のところに持って行って見ていただき,大層褒めていただきました。この紙が,そのとき先生に直筆で感想を書いていただいたもので…」

 それから,これは決してマヤカシではなく,極めて大きな成果であることを噛んで含めるように説明された。それを半ば上の空で聞きながら私は,これまでこの会社,そして青色LEDの開発者がどのような視線にさらされてきたかを想像していた。

 「それは十二分に分かりましたので,そろそろ本題に」

 たまらずに言ってしまった。そうでもしなければ,何時間もその説明を聞かされていただろう。

 「では」と語り始めたのは,それまで部屋の隅に控えていた技術者だった。中村修二氏である。彼は,例の甲高い声で,せっかちに開発経緯について語り始めた。つい最近まで研究のほとんどを一人で遂行していたこと,材料に窒化ガリウム(GaN)を選んだのは「ほとんど誰もやってない」という理由だったこと,キー・テクノロジーである結晶成長については独自に方式を考案し,必要な装置は自作したことなどなど。

 実は,私には研究者の前歴がある。その時代に手掛けたテーマが高温超伝導結晶膜の形成。彼同様,私も一人で結晶成長法を考え,装置を自作した。そのことを白状すると,彼の表情は和らぎ,舌は一層滑らかになった。我が味方を得たとばかりに。