1992年,DRAM市場と半導体市場で日本のメーカーがそれぞれシェア1位から転落した。

 日本の電子産業の勢いがなくなったのはいつからだろうか。半導体産業で見ると1992年が大きな転機だったことが分かる。日本の牙城といわれたDRAMにおける日本メーカーの凋落と韓国メーカーへの主役交代――これが明確になったのが,韓国Samsung Electronics社が市場シェア・トップに立った1992年である。

 1980年代に日本のDRAMメーカーは品質を武器に着々と地歩を固め,世界のトップに躍り出た。しかし2005年のDRAMメーカーの売上高を見ると,Samsung Electronics社ほか海外のメーカーが上位を占める(表1)。日本メーカーはかろうじて第5位にエルピーダメモリが入っているだけだ。


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 1992年は日本のDRAMメーカーにとって驚愕と失意の年だった。バルセロナ・オリンピックが開かれたこの年は,それまでの経験則によると,いわゆる“シリコン・サイクル”のピークに当たっていた。日本の半導体メーカーは莫大な利益を上げられると見込み,巨額の設備投資を行っていた。ところがバブルが崩壊した1992年の日本の半導体市場は,前年比-10%程度と大きく減少,DRAMも価格がどんどん下がった。伸びると思っていたのに落ち込んだので,企業に与えたショックは大きかった。日本メーカーは「出(いずる)を制す」(大手DRAMメーカー)方針で投資を極力控えた。

 Samsung社はこのとき逆に重点投資を行い,当時の次世代製品(16MビットDRAM)の開発で先行するとともに,Siウエハーの大口径化などを進めコスト競争力をつけた。ただ同社の戦略は突飛ではなく,セオリー通りだった。ある国内中堅DRAMメーカーの半導体担当役員は1992年末に,「DRAMの勝ちパターンは分かっている。製造装置が安くなり競合他社の力が弱まる不況期にこそ投資することで収益を上げられる。ユーザーにも製品を安定供給できる。シリコン・サイクルの波に翻弄されてはならず,逆に利用すればよい。でも会社で実権を握る経営陣は,それを戦略と認めてくれない」と語っていた。

 日本のDRAMメーカーは,どれも似たような状況にあったといえる。ある総合電機メーカーの年末の記者懇親会では,役員の“序列”が話題になった。半導体担当役員が壇上に呼ばれる順番が,シリコン・サイクルの山か谷か,すなわち事業収支によって大きく変わったからである。投資を決める役員会での発言力も同様で,好調なときは過剰な設備投資に走り,不況になると予算縮小を余儀なくされていた。そこには事業目線の戦略性は全くなく,「投資行動は勝ちパターンの逆,つまり負けパターンだったが,分かっていても打破できなかった」(前出の役員)。