1987年に米国は,日米半導体協定の不履行を理由に,日本製パソコンなど3品目に報復関税を課した。
かつて日本の産業が成長する過程で,米国との間で数多くの貿易摩擦が生じた。繊維,鉄鋼,テレビ,自動車,そして半導体も日米政府が介入する貿易摩擦で緊張した時代があった。本誌がこのテーマで特集を組んだのは1992年2月3日号である1)。
日米半導体摩擦の大きな山場は1992年末だった。日本市場に占める外国系半導体のシェアを1992年末までに20%以上にするという目標が定められた。業界団体として米半導体工業会(SIA)と,日本側はEIAJ(日本電子機械工業会,現在のJEITA)の外国系半導体ユーザー協議会(UCOM,1988年発足)が窓口だった。
ただし1991年末になってもシェアは目標値に5%程度不足していた(図1)。あと1年足らずで,外国系半導体の購入額を1200~1700億円程度増やす必要がある。日本テキサス・インスツルメンツ(日本TI)の当時の年間半導体売り上げに匹敵する数字だった。
本誌特集の結論は「1992年末の達成は不可能とみる声が,日米を問わず大勢を占める。ただし,不自然な強攻策が浮上しない限りはというただし書きが付く」というものだった。とにかく取材の数をこなした。特集第3部は日米24人へのインタビューで構成した。米半導体メーカーのトップからも,「20%という目標は妥当だが時間はかかる」といった声が少なくなかった。
結果はどうなったか。外国系半導体のシェアは目標期限ぎりぎりの1992年第4四半期に急伸し,20%という目標はクリアされたのである。これで,日本企業にとって胃が痛くなるようなSIAからの圧力も薄れた。技術者の仕事の枠内からは,不自然な方策があったことは確かである。例えば「捺印とかね」という声が聞こえていた注1)。「努力ではなく結果が,公正かどうかの判断基準」と迫られていた。とにもかくにもこのハードルをクリアして,摩擦はほぼ解消したのである。UCOMは「『外国系半導体』という言葉自体が死語になりつつある」と肩の荷を下ろした思いで1999年に解散した。
注1)日本メーカーの製造だが外国系半導体メーカーの印を押して…という意味。OEMといってよいのだろうが,目的が通常のOEMとは懸け離れていた。