1986年,高温超電導体が発見された。

 スイスのIBM Zürich研究所が発見したLaBaCuOの30K付近の抵抗異常を,東京大学が超電導だと確認したのが1986年11月。東大はこの結果を12月5日に米国ボストンで開かれていた材料関連の学会「MRS(Material Research Society)」で緊急発表した。高温超電導フィーバーと呼ばれた時期は,このときから翌1987年の秋ごろまでの間だと思う。

 MRSでの東大の発表を受けて世界中で新しい超電導物質の探索が始まり,2カ月後の1987年2月には,米University of HoustonがYBaCuO化合物で液体窒素温度(77K)を超える84Kの臨界温度を確認したと発表した。そして翌3月18日に,歴史的な米国物理学会「APS(American Physical Society)」がニューヨークで開かれる。臨時シンポジウムに集まった2000人を超す参加者が夜7時半から翌未明まで8時間近く議論を続けた。米Business Week誌はこれを「物理学者のウッドストック」と呼んだ。

 この時期をピークとする半年間ほど,学会は機能を停止する。研究者はファクスでプレプリントを配布し,実験結果を報道機関へリークした。超電導の臨界温度はいつの間にか数百Kも上昇し,室温でも超電導は起こり得るという期待感が広まった注1)。高名な学者が「トランジスタの発明よりもはるかに波及効果は大きい」と語り,マスコミは21世紀の初めに数十兆円の市場が生まれると予測した注2)

注1) 今振り返ると,その時点での臨界温度(Tc)はたかだか90Kである。翌1988年にBi系,Tl系超電導体が見つかりTcは125Kまで上がり,1993年にHg系で135K(常圧)に達したのが現時点の最高温度。室温超電導の報告の多くは,抵抗値の急激な変化を観測したもの。抵抗値の変化は超電導以外にもさまざまな原因で起こる。

注2) 多くのマスコミが超電導に過大な期待を込めた記事を掲載する中,本誌は「超電導,液体窒素温度を超える」(1987年4月20日号,no.419,pp.79-82)という淡々とした記事をニュース欄の2本目に載せただけである。ちなみに,1本目の記事は米IBM社が32ビット・パソコンを発表したというもの。

時代背景1――半導体摩擦

 高温超電導に対する日本企業の対応は迅速だった。東芝や日立製作所は電力用機器で,富士通やNECはジョセフソン・コンピュータのプロジェクトで,それぞれ超電導の研究者を保有していたからだ。それに,このころはまだ日本の半導体ビジネスが伸び盛りの時期で,大手メーカーは中央研究所や基礎研究所に潤沢なリソースを配分できた。新規参入組もたくさんいた。松下電器産業や三洋電機はSQUID(超電導量子干渉素子)や高周波デバイスでの実用化を目指した注3)

注3) ある日,三洋電機の研究開発を指揮していた桑野幸徳氏に,東京オフィスの近くのうなぎ屋に昼食を誘われたことがある。アモルファス太陽電池の実用化で実績を上げていた桑野氏は,新しい物理現象を実用に結び付けることがいかに楽しくやりがいのある仕事かを熱心に語った。イノベーションに対する信頼と期待を素直に持つことのできる人がたくさんいた時代である。後に三洋電機の社長になった桑野氏は,技術とは無関係の世界のマーケット構造の変化に翻弄される不本意な境遇の中で退陣した。

 企業だけでなく,通産省(現・経済産業省)も超電導に俊敏に反応し,1987年の秋には産学の研究開発コンソーシアム設立に動き出した。当時,日本と米国の関係はまだ微妙だった。自国と世界の半導体市場における日本企業の台頭にいらだっていた対日強硬派の議員グループが,時代遅れとも思える「超電導競争法案」を議会に提出する。一方,対ソ連の軍備拡張に執心していたレーガン大統領は「超電導開発推進計画」を発表し,超電導の軍事利用を呼び掛けた。