1980年代を私は本誌編集長として過ごした。当時と現在とで,1980年代に対する私の見方は大きく違う。当時を振り返るとき,「なぜ気付かなかったのだろう」の思いを禁じ得ない。

 例えば1980年代に欧米企業の研究開発方針は大きく転換した。要約すれば「中央研究所の時代から産学連携の時代へ」である。

 西洋社会の伝統では長いこと,「知」と「技術・産業」は分断されていた。大学と産業界の距離は,西洋世界でこそ遠かった。それが1980年ごろから様子が変わる。「新産業を生み出すのも,新しい雇用を創出するのも,大学であり,大学の仕事に基づくベンチャー企業であり,それを起こす企業家だ」。世界中でこう期待し始めたのである。今にして思えば,それは,ほとんど革命(大学革命と呼ばれる)だった。

 伝統的大学人の強い抵抗と社会的な摩擦を伴いながら,この革命は進行した。歴史的に大きな転換であるだけに,痛みもまた激しかったようである。欧米におけるこの革命について,日本の産学官もマスコミも鈍感だった。私も例外ではない。なぜ鈍感だったのか,自省を込めて考え続けたい。

 大学革命の波が日本に及ぶのは遅かった。確かに21世紀初頭の現在は,日本でも産学連携や大学発ベンチャーへの期待が,産学官挙げての大合唱となっている。その点,世界の他地域と大差ない。しかし日本では途中経過が違う。1980年代後半のバブル経済華やかなりしころ,日本を基礎研究ブームが覆う。「キャッチアップは終わった,さあ,これからは基礎研究だ」。

 背景にはリニア・モデルがあった。「基礎→応用→開発」=「研究→開発→生産」=「科学→技術→産業」。この順序で事が起こるとする。そしてこの順序の上流ほど偉いとする。欧米でようやくこれが終わろうとするとき,バブルの日本では逆に燃え盛ってしまった。国立研究所も産業界も,産業的な価値を無視するかのように基礎研究に力を入れようとした。

 おごった産業界はうそぶいた。「大学頼むに足らず。ノーベル賞も会社が取る」。中央研究所の縮小に走る欧米企業は,このとき反面教師だった。「研究から手を抜くようになっては,欧米の一流企業もおしまいだね。これからは日本企業の時代だよ」。折から「経済一流,政治三流」と,まことしやかに唱えられていた。

 確かに1980年代末に日本経済は空前の繁栄を謳歌する。しかし今振り返ると,周回遅れを先頭と誤解していた節がある。日本がバブルを謳歌していたころは,世界の大転換期である。この時期世界は次の時代の生みの苦しみにあえいでいた。そのため工業生産を一時弱体化させる。同じとき,工業生産に特化した古い構造を日本は温存し,転換に加わらなかった。それ故大きな利益を上げる。そういうことではなかったか。