ばかげた批判である。基礎研究の直接の応用とはいえない産業技術など,山ほどある。しかし,時の通産省は貿易摩擦への対応に苦慮していた。「ただ乗り論」を受け入れて基礎研究を強化する道を選ぶ。傘下の工業技術院に属する研究所に対して,基礎研究を強化するよう,ほとんど強制する。

 やがてバブルが来る。産業界の研究開発投資も急拡大した。拡大の方向は基礎研究である。日本の外で中央研究所の縮小と産学連携が進行しているさなか,日本企業は基礎研究を拡大する。

 背景にあったのは,繰り返すが「キャッチアップは終わった。これからは基礎研究だ」という認識である。研究者・大学人・官庁科学技術政策担当者にとって,この認識は快いものだったのだろう。「科学→技術→産業」の流れの上流を担うところほど「偉い」という思いを,日本の研究コミュニティーも共有していた。それは,ヨーロッパに対して後進国だった時代の米国研究者の思いと同様である。

 皮肉にも同じ時期に,米国産業界は,基礎研究や中央研究所の経済効果を疑い,研究開発投資の方向を事業密着型に変える。基礎シフトという1980年代の日本の政策は,欧米とは逆方向を向いていた。

シリコンバレー・モデル

 欧米産業界の方針転換に大きな影響を与えたのは,シリコンバレーの発展である。シリコンバレーでは,大企業中央研究所方式とは異なる研究開発モデルが成長していた。例えば米Intel社は創業当時から中央研究所を持たず,研究開発を生産現場で行う,という方式を採用する。この方式で手に負えない問題は大学に頼ってきた1)

 シリコンバレーの大学は早くから半導体の技術開発に加わる。特に集積回路設計技術への寄与は大きい。設計ツールのベンチャー企業を生み出すことにもつながった。また集積回路設計技術の教育にも早くから取り組み,産業界に急増する設計技術者需要に応えてきた。この集積回路設計における産学連携で日本は大きく遅れ,種々の対策が取られたのはようやく1990年代の後半になってからである。

 集積回路における最大のイノベーションは1970年代初頭のマイクロプロセサの登場といえよう。これは中央研究所が生み出したものではない。マイクロプロセサは若者たちを刺激し,新しい応用が彼らから次々に生み出された。彼らをサポートするエンジェル(個人投資家)やベンチャー・キャピタリストといった存在が地域内に集積し,集積が集積を呼んでいく。

 ここにインターネットが加わる。比較的小規模の組織が得意技を持ち寄り,ネットワークを介して分業する方が,大企業の自前主義よりうまくいく。これが地域の共通認識として定着する。この分業の一翼を大学も担う。大学は,卒業生や教職員を通じて,連携・協力のプラットフォームとなる。