1972年の秋に富士通が国内で初めてPDPを製品化した。

 プラズマ・ディスプレイ・パネル(PDP)は,現在では大画面フラット・パネル・ディスプレイ(FPD)の本命として実用期を謳歌している。今年4月松下電器産業は世界最大の103型テレビを発表,年末には発売の勢いだ。このPDP技術の源をたどると,35年前に突き当たる。


図1 Illinois方式を改良した富士通のPDP 左が1971年に開発したPDPで,右が1972年に発売したもの。左は本誌1971年6月7日号,右は同1972年11月6日号から。

 PDPは1964年米国University of Illinoisで誕生した。当時は放電開始電圧が高いとか周辺回路が複雑などの難点があって,「実用化は無理」との悲観論が強かった。しかし,富士通研究所は,1967年にUniversity of Illinoisと共同研究契約を結ぶ。3年がかりで難点を克服し,実用化に向けた試作機を完成,我が国で一番乗りを果たした。これが1971年の夏である(図1)。

 1970年代の前半の5年間は,PDPの原型を作り出し,将来の実用化を確信した時代だった。多くの企業,研究所が熾烈な研究開発競争を繰り広げ,方向付けした時代でもあった。米国ではOwens-Illinois社,Burroughs社,IBM社などがコンピュータの端末を目標に開発を進めた。日本では壁掛けテレビの可能性ももくろんで,富士通をはじめ,NHK総合技術研究所,ソニー,日立製作所,東芝,三菱電機などが競った。

カラー化で壁掛けテレビ目指す

 富士通の開発は,当時の通産省の重要技術研究開発補助金の交付を受け,「マン・マシン図形対話システムに関する研究試作」の一環として行われた(補助金1億円,自社開発費数億円)。できた試作機は,表示面積10cm×10cm,厚さ約1.0cm。幅100μm弱の電極を0.6mmピッチでXY軸に沿って128本ずつ配置し,その電極が交差するところを表示点とした。点火電圧150V,最小維持電圧110V,周波数20kHzの交流駆動で,輝度は200~300ft-L。蜜柑色の画面で,やっとできたPDPであった。しかし,パネルの外からペンによって電圧をかけて,書き込みや消去もできた。多少改良を加え,同社は1972年秋に発売した。

 その後,グレー・スケール化,カラー化に開発の焦点が移った。1974年になると,テレビ映像のカラー表示ができる試作機が相次ぎ出来上がった。ソニー,日立製作所,NHK総合技術研究所などが名乗りを上げた。それぞれ構造が少しずつ違うが,いずれも直流型で,電流で発光輝度を制御した。研究者は将来の壁掛けテレビがPDPであることを確信し始めた。