実際後年には,振興の対象は,産業育成から研究開発促進へと比重が移る。市場競争の対象となる実事業に近い領域(コンペティティブな領域)は,個々の企業が自ら担当すべきであって,政府の支援は市場競争以前の基礎的な研究の領域(プレ・コンペティティブな領域)に限るべきだという認識が世界的に広まる。

 1966年,「超高性能大型電子計算機システム開発計画」が国の大型プロジェクトとしてスタートする。大型プロジェクト制度は正式名称を「大型工業技術研究開発制度」という。

 1971年には「パターン情報処理システムの開発」が5年計画の大型プロジェクトとして発足する。関連してこの年には,電子計算機輸入の自由化,集積回路の資本自由化が決まる。

 1976年には「超エル・エス・アイ技術研究組合」がスタートした。総予算は700億円。うち約300億円が国の出資である。IBM社の未来のコンピュータ計画「Future System」(俗称FS)に触発されたプロジェクトだった。この共同研究プロジェクトの反響は国際的である。このプロジェクトに倣い,世界各地で同種の産官ないしは産官学共同プロジェクトが始まる。

他産業を電子化

 1970年代には電子産業と他産業との間の関係に変化が生じる。電子産業が他産業を「電子化」し始めたのである。この電子化は以後,一貫して進展する。1960年代までは電子産業とは,最終製品としての電子機器を供給する産業だった。もちろん電子部品は最終製品ではない。しかし電子部品のほとんどは電子機器に組み込まれていた。

 ところが1970年代以後は電子産業は他産業と横断的に関係するようになる。他のすべての産業を「電子化」する産業となっていったのである。

 実質的には電子機器でありながら,統計上は電子機器に計数されない製品が1970年代以後急増する。例えば電子式卓上計算機,日本語ワープロなどである。半導体集積回路や光ファイバは用途を選ばない。何にでも使える。電子産業の内部にとどまらず,あらゆる産業に進出していく。

 マイクロプロセサこそ「電子化」の先兵だった。マイクロプロセサ・システムにおいては,ハードウエアは汎用となる。マイクロプロセサはプログラム内蔵方式だからである。用途を特定するのはソフトウエアの方だ。そのソフトウエアはメモリに入れる。そのメモリもLSIでできる。1970年代のマイクロプロセサの時代がこうして始まる。

 電子産業の外でもマイクロプロセサの利用が急速に広がった。半導体集積回路の機能当たり価格の低下は激しい。この価格低下を取り込まない手はない。こうして従来は他の技術を使っていたシステムがマイクロプロセサ・システムに置き換えられていった。

 情報処理技術の他産業への進出も電子化の一つの形として進展した。情報処理技術もかつては,エレクトロニクスの一部門という性格が強かった。電子機器の一つとしてのコンピュータの利用技術だったのである。しかし今は,全産業と関係する基礎技術の性格を強めている。言語学や記号論,あるいは心理学といった,文科系に近い学問との結び付きも深まった。もはや技術の範疇さえはみ出しつつあるのかもしれない。

西村 吉雄
参考文献
1)西村,『硅石器時代の技術と文明――LSIと光ファイバーがつくる“新農耕文化”』,日本経済新聞社,1985年(改訂増補版,開発社,1996年).
2)西村,「LSIと光ファイバがつくる硅石器時代を展望する」,『日経エレクトロニクス』,1985年1月14日号,no.360,pp.169-196.
3)西村,「1981年:光ファイバ通信――集積回路と対を成す『硅石器時代』の牽引役」.
4)『電子工業30年史』,日本電子機械工業会,pp.54-55,1979年.
5)西村ほか,『電子工業50年史』,日本電子機械工業会,pp.71-85,1998年.

本記事は,2006年7月に発行した日経エレクトロニクス創刊35周年特別編集版「電子産業35年の軌跡」から転載しました。内容は執筆時の情報に基づいており,現在では異なる場合があります

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