一つは半導体の輸出が急増し,貿易摩擦の主役になっていったことである。半導体輸出は,日本からの輸出が消費財から資本財へ移行する大きな流れの一環ととらえることができる。資本財が日本から消費財生産地域へ輸出され,消費財がそこから消費地へ輸出されるという貿易構造の重みが増す。日本から部品がアジアに輸出され,そこで民生用電子機器が生産されて米国に輸出される,というのが典型的な例である。これは1980年代のNIES(Newly Industrializing EconomieS,新興工業経済群)の発展を支えた基本構造だろう。

 日本の電子産業としては,技術と資本財を輸入して消費財を輸出するという発展途上国型の経済からは,脱却したといえる。

 しかし海外生産の進展に伴う,いわゆる空洞化も始まった。というのは,1970年代に始まる構造転換のもう一つの大きな要因は円高である。この結果,日本企業の海外生産が進展する。特に民生用電子機器については,海外生産の伸びは著しい。海外生産された機器の日本国内への輸入も大きく伸びる。

国産コンピュータの発展

 コンピュータと関連技術が経済・産業・社会にとって大きなインパクトを持つという認識が広まったのは1965年ごろである。情報産業という概念が登場してきたのも同じころである。

 政府も次々にコンピュータ産業振興政策を打ち出す(後述)。こういった振興政策を背景に,日本のコンピュータ産業は活況を呈する。ハードウエアに関しては米IBM社に比肩し得る水準に達したというのが一般的な評価だった。しかしソフトウエアでは,国産メーカーの力は弱かった。

 1969年にIBM社はハードウエアとソフトウエアの価格分離(アンバンドリング)を発表する。ソフトウエアの価値が高まり,それだけで独立して一つの事業として成り立つようになったという認識が背景にある。コンピュータを開発する上で,ソフトウエアに多大な人材と資金を要するようになったということでもある。日本の業界も対応を迫られた。

 1970年代に入ると,日本におけるコンピュータの資本および輸入の自由化がスケジュールに上る。危機意識の中で,電子計算機業界の再編成が進む。1971年10月に日立製作所と富士通が電子計算機部門の全面提携を決める。これが引き金となり,同年11月にはNECと東芝,沖電気工業と三菱電機が提携し,国産電子計算機メーカー6社は3グループに集約されることになった。

 しかしコンピュータ産業は,当時の危機意識とは異なった方向に発展する。汎用大型コンピュータが時代を象徴する方向への発展は長くは続かず,パーソナル・コンピュータなどに代表される小型機へのシフト(ダウンサイジング)が進む。やがてパソコンとインターネットの時代がやって来る。ただし,こういった動きが本格化するのは1980年以後である。

産業政策の変遷

 電子産業は第二次大戦後の日本において,ほとんど常に「振興」させるべき産業だった。それが貿易摩擦につながったともいえるし,日本の産業政策への海外からの批判も招いた。ただし,産業振興政策は研究開発促進政策を含んでいた。