丹波焼の壷の表面に現れた自然釉。燃料の木材が灰になって壷の表面に付着、融解してガラス質の釉薬となり器表面を流れている。

志野焼茶碗。桃山時代に美濃地方で焼かれたもの。元は向付だったものを茶碗に転用しているようだ。鉄薬で絵を描き、その上から長石釉と呼ぶ釉薬を掛け焼成している。

 そのことは、陶磁器の歴史をたどっていけば容易に理解できるだろう。

 陶磁器の前身は、縄文土器や弥生土器に代表される土器である。これらは当時の人々の暮らしを知る貴重な手がかりだが、その形体、文様、装飾などは、日本人の意識がすでに1万年以上も前から、機能のみでなく美をも志向していたことを伝えてくれる。

 ただ、これらの土器は露天で焼くため耐久力に乏しい。その問題を解決するために、窯に入れて高温で焼くようになったのが古墳時代の5世紀である。焼成温度が約800度程度から約1200度まで大幅に上がったことで、陶磁器は大きな技術革新を遂げる。土器よりはるかに丈夫な?器(せっき)が誕生したのだ。この頃すでに、成形のために轆轤(ろくろ)を使用していたことも分かっている。

唐津焼茶碗。桃山時代には、「奥高麗」と呼ばれる朝鮮半島風の茶碗が茶道具として焼かれたほか、さまざまな技法、さまざまな用途の焼物が唐津地方で盛んに焼かれた。東日本では陶磁器のことを「瀬戸物」と呼ぶが、西日本では「唐津物」と呼ぶ。

天啓赤絵茶碗。朝廷の力が衰え官窯の作品が粗雑になった明の天啓期に焼かれたもの。磁器でありながらも本来の精巧さや豪華さは影を潜め、陶器に近い味わいをみせる。日本人はこの時代の作品に「侘び」の美を見出し高く評価した。

 この?器の系譜として、日本各地で頑丈なやきものが作られるようになる。ただしその多くは無釉陶(むゆうとう)と呼ぶ、土をただ焼き締めただけの器だった。原始的かつ無骨なやきもので、平安時代から近世まで、水を蓄える水甕、農作物の種を蓄える種壷など、さまざまな実用雑器がこの無釉陶という様式で作られ続けてきた。その一方で、素朴さと力強い姿が侘び茶の美意識に適い、茶道具としても無釉陶は大いにもてはやされることになる。最初は室町期に作られた壷類などが茶道具に転用され、その後は最初から茶道具となるべく多くの器が生み出された。その伝統と様式は、今でも伊賀焼、信楽焼、丹波焼、備前焼などとして伝えられている。

 こうした無釉陶は、粘土だけで作られる。けれどその表面の一部にはガラス質の釉が点々と、ときにはたっぷりと掛かっており、それが一つの景色(見どころ)となっている。これが自然釉で、窯を炊く際に燃やした木材の灰が器に掛かり、それが溶け固まってできる。この現象を利用すれば、器全体をガラス質の釉薬で覆うこともできる。すなわち、灰を水に溶いてあらかじめ陶器の表面に塗り、その後に焼成すればよい。こうすることで、無釉陶で発生しがちな水漏れを防ぎ、汚れにくく艶やかな表面にすることができるのだ。これを施釉陶(せゆうとう)と呼ぶ。