海軍に「大馬鹿野郎」と噛みついた青年将校

 米軍の「スポーツマンシップ」に似た「窺イ知ラザル強サ、底知レヌ迫力」まで把握できていたかどうかはともかく、日本海軍が対空戦で負け続けていた事実は当然、報告され、対空砲の問題は指摘されていた。だが、なんら対策は講じられず、「通常ノ対空訓練ハ吹流シ、風船等ヲ仮説目標トセルモノニシテ、浮游セルソレラ目標ノ射撃記録ニ一喜一憂シイタルガワガ実情ナリ」という有様であった。

最近頻発セル対空惨敗ノ事例ニオイテ、生存者ノ誌セル戦訓ハヒトシクコノ点ヲ指摘シ、何ラカノ抜本策ノ喫緊ナルコトヲ力説ス
シカモコレラニ対スル砲術学校ノ見解ハ、「命中率ノ低下ハ射撃能力ノ低下、訓練ノ不足ニヨル」ト断定スルヲ常トス ソコニ何ラノ積極策ナシ
砲術学校ヨリ回附セラレタル戦訓ノカカル結論ノ直下ニ、「コノ大馬鹿野郎、臼淵大尉」トノ筆太ノ大書ノ見出サレタルハ、出撃ノ約三ヵ月前ナリ

 砲術学校に対し「大馬鹿野郎」と噛みついた臼淵馨大尉はその戦訓に附箋を付け、「不足ナルハ訓練ニ非ズシテ、科学的研究ノ熱意ト能力ナリ」と書いたという。前述したように、吉田氏は『戦艦大和ノ最期』に続き、約30年後に書いた『臼淵大尉の場合』において、臼淵大尉の人となりを詳しく記した。さらにその後書いた『三島由紀夫の苦悩』という文章においても臼淵大尉に触れ、次のように紹介している。

軍の中核に近い立場にあって多くの部下の生命を預かる身であればこそ、海軍社会の骨に巣くっている後進性、内容のない精神主義、物事の筋よりも因習、科学や技術よりも職人的修練が幅をきかす非合理さを知りつくし、それを少しでも是正することを願って、危険を冒してまで中央の権威に抵抗した。

 技術格差ではなく「訓練ノ不足」とし、「吹流シ、風船等ヲ仮説目標」とする「訓練」を続けていた海軍や砲術学校について、唖然とする、と書きたいところだが、それだけでは済まされない。抜本的な問題があるにも関わらず、それを無視し、「訓練ノ不足」と言い張る「後進性、内容のない精神主義、物事の筋よりも因習、科学や技術よりも職人的修練が幅をきかす非合理さ」が戦後無くなった訳ではない。

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ」

 臼淵大尉は合理的な考えを持ち、物事の筋を通そうとする人物であるとともに、部下から慕われたリーダーであった。出陣直前の大和艦内で、兵学校出身者と学徒出身者が「一体何のために我々は特攻し、死に向かうのか」と激しく議論し、一触即発の状態になった時、臼淵大尉が混乱を収拾した逸話は有名である。『戦艦大和ノ最期』を未読の方も、次の臼淵大尉の言葉を見聞きした事があるかもしれない。

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」

 この言葉は居合わせた人達を通じて現場に伝わり、それ以降、この議論を蒸し返すものは無かったと吉田氏は伝えている。臼淵大尉のこの発言は「合理的」ではないが、軍人の任務を全うする、「筋を通」すためのものであった。リーダーシップとは理屈を捏ねることではない。硫黄島の栗林中将は彼の合理精神というより、プロフェッショナル軍人の敢闘精神と部下に声をかけ続ける姿勢によって最後まで師団を統率した。臼淵大尉は、大和が、そして日本が「決シテ勝タナイ」と知りつつ、日本が「目覚メ」「救ワレル」事を期待し、「日本ノ新生ニサキガケテ散ル」と言い聞かせて、自身と周囲を最後の職務に就かせた。