蛇足ながら付け加えておくと、そのことが問題だなどと断じるつもりはさらさらない。ただ、特性としてそうなのではないかと思うのである。

 そもそも、特性というものは単に特性であって、それ自体を良いとか悪いとか言えるものではない。例えば、ある戦略を立案、遂行する場合、それが遂行組織の特性に適ったものであれば、成功の確率は高くなるだろう。戦略が特性を競争優位性として機能させるからである。ところが適っていなければ、同じ特性が致命的な弱点にもなる。つまり、特性をどう認識しどう利用するかという知恵が、特性の価値を決めるのである。

 ただ、その特性を大雑把に「現時点ではたまたまそうであること」と「大昔からずっとそうであること」に二分したとき、前者に属するものであれば、それほど神経質になることはないかもしれない。特性とは親和性のない戦略を選択することも可能だからだ。もっとも、戦略とペアで「特性を変える仕掛け」を用意しなければならないが。

 問題なのは、後者の「大昔から」である場合だろう。その特性を十分に認識し、それに沿った戦略を立案しなければ成功は望み難い。鵜の真似をする烏は溺れるのである。

工業製品なのに工芸品

 こうした、心に深く根ざした特性というか心情というか、そんなものとして「古くから日本は」という枕言葉でよく語られるのが、「技術好き」ということである。この場合の技術は、明確にテクノロジーを指す場合もあるのだが、全体としてはどうも技術=スキルというニュアンスで使われる場合の方が多いように思う。同じ技術という言葉を使うとややこしくなるので、この稿ではテクノロジー=技術、スキル=技ととりあえず呼称したい。

 そのルールによれば、「技術好き」というよりは「技好き」ということになる。たとえば、こんな話がある。イギリス郊外にある家具工場があり、そこではビクトリア調とかの古典的なイスやテーブルが工業的な加工装置を備える近代的な工場で生産されている。そこを見学した知人の話なのだが、その工場を見学する顧客が同じ欧州の人たちだった場合は、工場の担当者は自分たちの製品を「工芸品の風合いを再現した工業製品」と紹介し「ホー」というお褒めの言葉を頂戴する。ところが、相手が日本人の場合は言い方を変える。「工業的な技法の助けを借りて作製した伝統的な工芸品」と言うのである。経験からすると、日本人は「工業製品ではなく工芸品」と言わないと感心してくれないのだという。

 そんな例を挙げなくても、近所のスーパーや量販店をのぞけば「職人」「手作り」「技」「秘伝」などという言葉が溢れている。もちろん、商品の美点としてそのようなことを標榜しているのだ。はたして欧州はどうなのかと、かの地の事情に詳しい方に訊ねてみると、「日本人は手仕事の職人技が大好きだし、事実、そんな技がちゃんと生き残っている。欧州でもマイスターとかいう言葉はあるし技も残ってはいるけど、日本ほど濃厚ではないように思う。そもそも、芸術家や高級ブランドのデザイナーとかは尊敬されるけど、普通の職人が日本ほど尊敬されているとは思えない」というお答えだった。

 確かに、工芸品などの分野では、手の仕事が今でも多く残っている。貧乏で機械が買えないのではなく、あえて手で作ることにこだわっているのだろう。身近な例でいえば、食器。日本には、庶民向けの手軽な価格のものでも、まだロクロを使って成形し手作業で彩色した陶磁器の皿や鉢、向付などが多くある。ところが、デパートの特選洋食器売場に陳列されている欧州のブランド品でものをみても、石膏型などを使って均一な形で量産され、模様は印刷などというものがほとんどだ。先のイスの例ではないが、まあ、技をベースとした工芸品というより技術をベースとした工業製品である。精密な模様をすべてハンドペイントで施している工芸品と呼べそうなものは、マイセンなど超高級ブランド品の一部にすぎない。