1954(昭和29)年8月、52歳の中尾哲二郎は中央研究所長を兼務のまま技術本部長に就任する。その後、次々と設立された子会社の技術役員を全て兼務し、技術の総帥として松下グループの高成長を支えていった(図1)。

図1●中尾哲二郎年譜(4)-1954(昭和29)年から1967(昭和42)年まで-
図1●中尾哲二郎年譜(4)-1954(昭和29)年から1967(昭和42)年まで

 特に昭和30年代は昭和初期に次ぐ松下電器の第二期黄金時代といえる。その主因は、技術による「価値の創造」と直販システムによる「価値の獲得」がピタッと噛み合ったことにある。言い換えれば、経営に徹した幸之助と、「技術の経営」に心血を注いだ中尾の密接なコンビネーションによって実現した。特に中尾の技術力と人格力は松下電器にとって代えがたい宝となった。

 1956(昭和31)年の初頭、松下幸之助は1955年を起点に5年で4倍の売り上げを目指す「五カ年計画」を発表した。経済白書が「もはや戦後ではない」と締めくくった年のことである。各社が次々に市場投入する商品群の中で、日本独自の発明品である電気炊飯器は、激しい開発競争の渦中から東芝が一歩抜け出していた。松下電器が電気炊飯器を発売したのは同年12月のことだった。

 松下電器が出遅れた理由の一つは、その炊飯方式にあった。東芝の方式は「間接炊き」といわれ、米と水を入った内鍋をヒーター(外鍋)に入れ、その間に水を入れて米を蒸し上げるという原理を使っている。松下方式はこれとは異なり内鍋とヒーターを直接密着させる「直熱炊き」を採用した。熱効率の点からもこの方が勝っているはずだが、東芝方式に比べ炊き具合の制御が難しかった。戦後ソニーも電気炊飯器に取り組み、撤退したことはあまり知られていない。

炊飯器トラブルを先頭で解決