提携に見切りをつけ電池を自社開発

 1951(昭和26)年10月、中尾は幸之助とともに羽田空港を飛び立ち、技術契約交渉の旅に向かった。乾電池の二大メーカーの1社、米化学企業ユニオ ンカーバイド(UCC)との予備交渉である。当時朝鮮戦争の特需で乾電池需要が急増したのだが、日本製乾電池の品質が悪く、米軍からは高性能・高品質化が 強くメーカーに要求されていた。

 第一回交渉前夜のホテルの一室、中尾は昼間スーパーで買ったUCC製の乾電池をスパッと切って中身を徹底的に調べ、気づいた欠点をメモにまとめた。中尾はいつも工作用の「七つ道具」とメモを持ち歩いていた。

 翌日の交渉で「これらの点について見解を求める」と前日まとめた要点をぶつけると、相手は「次回技術者を呼んで回答する」と約束した。しかし翌日の第二回交渉にも技術者は来なかった。この時中尾は「真剣に取り組めばUCCの技術援助がなくてもやれる」と自信を持った。

 実は既に中尾は二大乾電池メーカーのUCCとレイオバック社を比較検討し、UCC不利との結論を得ていた。しかし、レイオバックは岡田乾電池(のちに東芝が買収)と提携している以上「自主開発しかない」と、先回りして着々と自主開発の準備を進めていたのである。

 一方、幸之助の立場は「商品を良くすることが先」である。UCCとの技術提携により早期にこれを実現したいと考え、電池事業を担当していた高橋荒 太郎(その後松下電器会長。「幸之助の右腕」とも言われた)に命じて交渉を急がせた。1953(昭和28)年に入って、交渉が具体的に進むとUCC側から 「乾電池部門を別会社化し株式の51%をUCCが持つ」という厳しい条件が提示された。「この話やめておこうと思うが、大丈夫か?」と困った幸之助は中尾 を呼び、意見を求めた。「自信を持って(乾電池の自社開発を)やります」と水面下で準備を進めていた中尾はキッパリ答え、この提携話はキャンセルされた。

 これを機に同年5月、中央研究所が設立された。中尾は所長に就任し、当面の重点課題として乾電池の開発を取り上げた。

 乾電池の構造は陽極である炭素棒の周囲に合剤(炭素、二酸化マンガンなどを固めたもの)を置き、その周りに電解液を浸みこませたデンプン層を作ってこれ を陰極である亜鉛缶の中に入れたものである。当時、乾電池に対する物理化学的理論は皆無に近く、経験だけが頼りの世界だった。日本の乾電池は合剤を和紙で 包み糸巻きにして崩れないようにしたもので、合剤を固めただけの米国の裸式技術に比べ性能や生産性が大きく劣っていた。また、亜鉛缶も亜鉛板を切ってそれ を機械で巻き、底板を半田付けするもので漏液しやすかった。

 精鋭を集めた中尾は「4年分の仕事を1年でしようじゃないか」と先頭に立ち、合剤・デンプンの改良と押し出し亜鉛缶方式とによる高性能裸式乾電池 の生産を開始させた。先行していた岡田乾電池がレイオバックからの技術導入により外国技術による新電池を発売するのとほぼ同時期であったから、そのスピー ドはお分かりになることだろう。

―― 次回へ続く ――