独立と復帰の狭間で揺れる

 そして終戦を迎えた。まだ戦後の混乱が収まらない1947(昭和22)年10月、中尾は7名の部下を伴って松下電器を離れ、中尾研究所を設立した。場所は大阪府守口市にある中尾の自宅である。

 離れた理由について松下幸之助は「松下電器が解体の危機に陥り、研究所が解散させられるのを防ぐためであった」とのちに語っている。しかし事情は異なり、三洋電機の創業者・井植歳男の独立劇と無関係ではなさそうだ。井植は幸之助の義弟で、1947(昭和22)年2月に松下から独立している。

 中尾研究所の主な仕事は、三洋電機の創業商品である自転車用発電ランプ。つまり、その実態はまさに三洋電機・別動隊だったわけだ。一方で、研究所の運営費用は松下から出ていたというからややこしい。ともあれ三洋はこの発電ランプで急成長するが、中尾研究所の存在なくしてはそれも不可能だった。

 中尾が独立して4年経った1951(昭和26)年8月初め、松下の谷村博蔵(元松下電器副社長)が研究所を訪れた。聞けば2カ月後の10月に幸之助がフィリップスや米国・乾電池メーカーとの技術提携の交渉をするため外国行きを予定しており、ついては中尾に同行してほしいとのことである。中尾は「発電ランプも一段落した」ので行けると思ったが、中尾の報告を聞いた井植歳男が反対した。これが中尾の松下復帰に繋がることを恐れたのであろう。

写真1●中尾研究所時代の備忘録(中尾家提供)
写真1●中尾研究所時代の
備忘録(中尾家提供)

 中尾の心境を備忘録から推察してみよう(写真1)。「自分のために三洋松下の間が悪(ヨリ以上)くなる事は避くべきであるから、松下の方を円満に辞退(外国行)する方が良いと考えた。しかし公平に考えれば三洋が反対するスジでは無いとも思う」(原文のまま)と中尾は井植と幸之助間の微妙な関係を憂慮しつつ、気持は松下側に傾いていることをにじませている。

 この後さらに事態は深刻になり、中尾の三洋残留か松下復帰かの問題に発展する。備忘録では、「8月25日、井植社長はどうしても行くなら三洋と手を切ってから行けと云い、自分は充分考慮して返事する事を述べて帰へる。夜12時頃岩佐来所、三洋より自分を失う事の重大な事を述べ、明け26日、後藤所長と共に来宅、外国行中止をたのむ」(原文のまま)と、井植が幹部を動員し必死に中尾を引き留めようとする様子が見てとれる。岩佐、後藤というのは、のちの三洋電機常務・岩佐三郎と副社長・後藤清一である。しかし、中尾の松下復帰への意思は固かったようで、結局9月3日には「松下社長面会、自分の方針発表、井植上京中ノタメ面会出来ず」と、この問題に自ら終止符を打っている。

 そして翌1952(昭和27)年、中尾は技術部長・常務取締役として松下電器に復帰した。研究所員の松下復帰に関し、処遇の維持、勤続の継続など中尾自ら松下側に掛け合った。給与は三洋の方が良かったようで、秘書の松本は「松下で最も高給とりの女子社員」と評判になったという。

提携に見切りをつけ電池を自社開発