素人3人でプロの仕事を達成

 昭和初期は、米国に始まった世界恐慌やデフレ・金融政策により、不景気が一段と深刻になる時代だった。しかし、というよりだからこそ、情報入手・娯楽の手段として、ラジオ放送は急速に普及していった。松下電器もラジオ業界に進出すべく1930(昭和5)年にラジオ技術者・北尾鹿治と共同出資の会社を始めたが、半年余りで事業方針の相違から提携を解消した。

 「君、こういう事情だからひとつラジオをやってくれ。故障の起こらないラジオだ」。

 「いや、それはとても無理です」。

 切り出した幸之助の言葉に、中尾は思わず辞退の意を示した。事情はよく理解していたが、電熱器と違って高度な電気理論を必要とするラジオ開発に、機械技術者の中尾が太刀打ちできるはずはない。尻込みする中尾に「君ならできるよ…」と幸之助が畳み掛ける。

 思えばアイロンの時も同じであった。電熱のデの字も、アイロンのアの字も知らない中尾だったが「自分をそこまで信頼してくれるのなら、命がけで取り組んで必ず成功させよう」と勇気を奮い、成功させてきた。そしてそれは少なからず中尾の自信にもつながっていた。中尾は幸之助の顔の向こう側に、過去の成功を思い起こしていた。

 「よし、やってやろう」。意を決した中尾は、まず体制づくりに着手する。蔵前(現東工大)と神戸(現神戸大)の専門学校を出たばかりの2人の若手が低周波・高周波回路の担当、全体のまとめは中尾の役目であった。

 幸之助から与えられた目標は、「故障のない理想のラジオ」である。「故障の多い原因は部品にある」とにらんだ中尾は、若手2人と共に回路部品を総点検した。抵抗、コイル、コンデンサはもちろんのこと、真空管の構造や製造法まで細かく分析すると、国産の部品に粗悪品が多いことが分かった。特に問題なのは、微弱電波の再生検波式回路のコイル(同調・再生)だった。

 放送バンド全域にわたって一様な再生を得るために、気の遠くなるほどにコイルを試作しては粘り強く実験し、最適条件を求めていった。そして3カ月目、ようやく完成した。このラジオは東京放送局(現NHK)のラジオ設計コンクールで見事に当選を果たす。高品質なコイルが一等当選の最大要因だった。東京放送局の技術部長・北村政次郎は「どうしてこういう特性の良いコイルができたのか」と感心したという。素人3人で始めたラジオ開発はわずか3カ月で、日本でもトップランクの技術水準に到達したのだった。

 昭和の大不況の中にあって、電気アイロン、電気コタツ、ラジオとヒット商品を連発していく松下電器に世間も注目した。1934(昭和9)年8月28日の大阪朝日新聞は「松下電器製作所の偉観・燦たりナショナルの輝き」というタイトルでその成長を大きく報じている(写真2)。研究部についても「さらに誇るべきは研究部の充実せる存在であり、中尾部長以下四十余名の日夜研鑽に余念なく、現在約四百件に垂んとする特許実用新案其の他諸工業権を擁している」と賛辞を送っている。このような世間の評価は、幸之助の起業家精神に、中尾のチャレンジ精神が合わさって築き上げられたものだった。

 写真2●松下電器の躍進ぶりを伝える新聞記事(大阪朝日新聞の昭和9年=1934年=8月28日版)
写真2●松下電器の躍進ぶりを伝える新聞記事
(大阪朝日新聞の昭和9年=1934年=8月28日版)

技術責任者として経営に関与