1918年に創業し今風に言えばベンチャーだった松下電器は、世界の代表的なメーカーへ姿を成した。一代にして世界企業を作り上げた天才経営者・幸之助のベスト・パートナーが中尾だった。第二回では、松下電器の最初の黄金期といってよい、中尾哲二郎の青年時代(20歳代後半~30歳代前半)の姿を探っていく。

 中尾哲二郎の青年時代(20歳代後半~30歳代前半)に当たるこの時代は、松下電器の最初の黄金期といってよいだろう。配線器具やランプのみならず、電熱器や無線という新事業進出の成功により、電器業界の第一人者と称されるまでになった。また、中尾にとっても第一線の技術者から、31歳で研究部長、34歳で取締役就任と一気に階段を駆け上がった。限りなく果てなき道――「技術」を見据えて。

 アイロンの量産が軌道に乗った1929(昭和4)年、電熱商品第二弾として中尾が開発したのは電気コタツである。コンセプトは「安全で性能がよく、誰でも手軽に買える電気コタツ」というものだった。

 当時の暖房は、熱源にタドンを使ったコタツが大部分を占め、電気コタツはあるにはあったが高価で性能が不完全なものが多かった。毎年冬になると一酸化炭素中毒による死亡事故や火災事故が新聞記事を賑わした。

 「安全性が第一」と考えた中尾は、完全に機能するサーモスタットの実現に取り組んだ。この時発明した「渦巻き型バイメタルによる即断式サーモスタット」は、コンパクトで接点の速動力が大きく、電波障害を出さないバイメタルとして業界の話題を呼んだ(松下電器によるサーモスタットの解説記事)。中尾はこの発明で1956(昭和31)年に紫綬褒章を拝受している。

 優れた特徴はそれだけではない。コタツと布団の滑りを良くするために考えついた独特の「丸山型デザイン」とその量産方式を完成させたことだ。今でも松下電器ではこの渦巻き型サーモスタットと丸山型デザインを、それぞれ「元祖・ブラックボックス技術」「元祖・ユニバーサルデザイン」として商品開発の手本としている。

 「徹底してやり抜く」というのが中尾の信条であった。コタツがいかなる位置で使用されても最高温度が危険温度の摂氏70度に達しないよう、細心の注意を払ってサーモスタットの取り付け位置を決めていかねばならない。実験室の布団に研究員を寝かせてあらゆるデータを採っては問題を潰し、また試作品を家に持ち帰って実際に使いながら、布団に潜り込んではサーモスタットの切れる音を確認する。昼も夜もない生活が続いた。

 丸山型デザインのアイデアは良しとしても、問題はどうやって量産するかである。中尾はビア樽に着目した。「あれが出来ているのだから出来ない筈はない」。新たに開発した専用機で粗方削った後、当時珍しかった幅広のベルトサンダーを使って一気に表面を磨き上げるという方法を中尾は開発した。こうして出来上がったコタツは、サーモスタット・デザインが良く、しかも安価という三拍子揃った商品としてたちまち大ヒットし、その後4、5年のうちに市場を席巻したのである(写真1)。

 写真1●丸山型電気コタツ(左)と渦巻き型サーモスタット(右下)、いずれも松下電器社史要覧(昭和56年)より
写真1●丸山型電気コタツ(左)と渦巻き型サーモスタット
(右下)、いずれも松下電器社史要覧(昭和56年)より

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