3カ月で電気アイロンを完成させる

 さらに2年が経過し、元号が大正から昭和へ変わる頃、世間では電熱商品がその利便性・安全性の面で少しずつ注目され始めた。昭和初期に発行された「電気の設備と使い方」(主婦の友社発行)には、家庭電化を「電燈のほかに電熱または電動力を利用して、家庭生活の改善向上を図り、より幸せな生活をしようというのが目的」と書かれている。

 特に電気アイロンは当時普及していた炭火アイロンに比べて格段に使い勝手が良かったが、国産・外国製品ともに価格が高いのが難点であった。米国の電器メーカーであるウェスティングハウス・エレクトリック社製のアイロンで16円、国産もので4~5円が相場である。昭和初期は「月給100円」が不自由しない生活に向けての目標だったそうだ。だから電気アイロンはそう簡単に買えるものではなかった。「何とか小学校の先生でも買える電気アイロンをつくりたい」。電熱分野への進出を目論む幸之助にとって「優秀な技術者である中尾哲二郎を呼び戻す」との思いが日に日に大きくなっていった。

 「大将、いっそのこと浜野を専属の下請け工場にしたらどうですか。そうすれば中尾君も安心するのではないですか」。当時東京出張所を任されていた宮本源太郎は幸之助にこう提案した。「では君から中尾君に打診してみよ」と幸之助が答えた。

 宮本の根回しにより浜野の主人が得心した頃合いを見計らって、幸之助は東京の中尾を訪ねた。

 「中尾君、わしはこういうことを考えているんだ。近頃、電熱器というものが出回りだした。使ってみると非常に便利である。しかし今のような高い価格では、電熱という便利なものを多くの人に使ってもらうことはできない。だからこれを合理的な設計と生産、合理的な販売によって、できるだけ安くしたい」。

 「それは大賛成です。つくり方を工夫すればきっと出来ると思います」。

 「ならば君、ひとつそれを担当せよ」。

 こうしてすんなり復帰が決まった。中尾は後に、社会的必要性を熱心に説く当時の幸之助の話に「感激と使命感を覚えた」と周囲に何度も語っている。

 こうして1927(昭和2)年1月10日に再入社した中尾は、わずか3カ月で電気アイロンを完成させてしまう。幸之助の注文は「量産を前提とし、価格は2円50銭、品質は一流」であった。2円50銭の根拠は「学校を出て下宿住まいする、小学校の先生でも買える」というものであった。目標の2円50銭には到達しなかったが、「3円20銭の価格で、品質はウェスティングハウスに劣らない」という中尾の会心作は「スーパーアイロン」と名付けられ、予想以上の好評を博し発売された(松下電器によるスーパーアイロンの解説記事)。

 「意欲を持って真剣に取り組めば、必ず成功する」という中尾の信条は、この時培われたと言ってよいだろう。この成功により松下電器は、ソケット・自転車ランプの会社から、家電製造会社へ脱皮する第一歩を踏み出したのである。

―― 次回へ続く ――