死別と苦労を重ねた少年時代

 中尾が口にした「檜山」というのは、松下に二股ソケットのベース(電球を受ける土台部分)を納める下請け工場である。「君はいつから檜山に来たのか?」 と問う幸之助に、「震災に焼け出されて、10日ほど前にこちらに来ました」と中尾は答える。「君はこういう仕事に経験があるのか?」「私は金属工作所に徒 弟として育てられましたので、型の仕事は経験があります」「檜山のためにしっかり働いてくれ」と二人の間にこんなやり取りがあった。

 10日ほどして納品に来た檜山の主人に幸之助が「良い職人が入ったね、あれは良い仕事をするだろう」と尋ねると意外な返事が返ってきた。「あれは ダメです。うちのやり方に文句ばかり言って…、使い切れないので暇を出そうと思っています。いっそ大将の方で使ってもらえませんか?」。「じゃあ、僕のと ころで使ってみよう」と幸之助の一言で中尾の採用が決まった。

 中尾哲二郎が生まれたのは1901(明治34)年、東京・神田生まれで生粋の江戸っ子である。家は十一代続いた士族の出で、三人兄妹の真ん中であった。父は金属加工業を営んでおり、中尾は物心つく頃から工場に出入りし、文字通りハンマーの音を聞きながら育っていった。

 しかし何不自由ない毎日は長続きせず、不幸が中尾を襲った。まず小学校入学の10日目に母が病死、さらに小学校卒業の年に父の工場が破産した(図1)。中尾は進学をあきらめ小学校を卒業すると、金属装身具を製造する浜野製作所へ奉公した(写真3)。

図1●中尾哲二郎年譜(1)-出生から1927(昭和2)年まで-
図1●中尾哲二郎年譜(1)-出生から1927(昭和2)年まで

少年時代の中尾哲二郎(浜野製作所時代)
写真3●少年時代の中尾哲二郎
(浜野製作所時代)

 中尾の技術者としての資質は、この少年時代に磨かれたといってよい。帽章の金型の作り方などは、父の工場に出入りしたことで小学生時代にマスターした。浜野製作所では、発明考案に興味を持った。16歳の時には東京電燈(東京電力の前身)が懸賞募集した「盗電防止器」の開発を試みたが失敗。専門知識の重要性を知った。

 同年に入社した日本帝国徽章商会では、メダル製造の型を改良する仕事を与えられた。勉強熱心な中尾は、神田の古本屋で見つけた「鉄とハサミ」(本田光太郎著)を熟読した。そして書かれてある通り何種類も熱処理をして割って見ているうちに、材質の良し悪しを見分けられるようになった。こうした意欲的で器用な仕事ぶりが評価され、13銭の日当が1年半後には30銭に昇給したという。

 しかし不幸が再び中尾を襲った。1918(大正7)年に父と兄が相次いで病没し、17歳にして中尾と妹の二人だけが残されたのである。妹を叔母の家に預け、自分は念願の東京工科学校(現・日本工業大学)の夜間に進学した。「技術で身を立てる」という精神で3年が経過した1923年9月、関東大震災が東京を襲った。日本帝国徽章商会が全壊し致命傷を受けたこともあり、中尾の足は自然と「工業都市・大阪」へ向かっていった。

 十代後半の若さで肉親の相次ぐ死に直面したり、震災に遭ったりと、少年時代の中尾はずいぶん苦労した。だがこの経験が、中尾の強い精神力と人への優しさを養ったといえるだろう。

 大阪で松下電器に入所した中尾はまず、砲弾型電池ランプ(松下電器による砲弾型電池ランプの解説記事)にかかわった。当時は砲弾型電池ランプの発売直後。修理場の一角で、幸之助が設計した改良部品を中尾が試作するという毎日が続いた。

 中尾は工場の二階に下宿していたため、昼夜を問わず幸之助の仕事ぶりに接することが多かった。幸之助は工場経営のかたわら、絶えず机の上に試作品や道具を置いて、暇さえあればにらめっこし、気がつけばサッと略図を描いて改良に取り組んでいく。試作を手伝いながら中尾は、何でも気づいたことを納得のいくまで追求し、そのために仕事が遅れるようなことがあれば徹夜も辞さないという幸之助の熱意と執念を学んでいった。

 ところが入所して1年後、事情あって中尾は松下を辞め東京に戻る。旧主家である浜野製作所再建への協力を要請されたのである。妹を残した東京への郷愁もあったであろう。

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