『ジャーナリズム雑感』が大変面白いのでいささか長く引用してしまった。本題の『ニュース映画と新聞記事』に話を戻す。寅彦は新聞記事に引導を渡し、ニュース映画への期待を表明する。

 新聞記事といふものは、読者たる人間の頭脳の活動を次第次第に萎縮させその官能の効果を麻痺させるといふ効能をもつものであるとも云はれる。此れは或は誇大の過言であるとしても、吾々は新聞の観念的社会記事から人間界自然界に於ける新しき何物かを発見し得る見込は殆ど皆無と云つてよい。然るに一見何でもないやうな市井の些事を写したニュース映画を見て居るときに、吾々大人は勿論、子供ですら、時々実に驚くやうな「発見」をする。映画は或意味で具象そのものであつて、其中には発見され得べき真なるものの無限の宝庫が隠れて居るからである。かういふ点では新聞の社会記事といふものは云はば宝の山の地図、しかも間違ひだらけの粗末な地図以上の価値はないと云つてもよい。ニュース映画は此の意味に於て人間の頭脳の啓発に多大な役目をつとめるものでなければならない。

 ここから先に紹介した、「ニュース映画によつて、人間は全く新しい認識の器官を獲た」という文章につながり、締めくくられる。以上をご覧になってお分かりのように、ジャーナリズムに対する寅彦の批判は75年後の今においても通用する。ニュース映画は人間の頭脳の啓発につながったとは言えないし、新聞の社会記事は今でも掲載されている。それどころか多くのテレビ放送は、「新しい認識の器官」というより、類型化、科学や技術への理解不足、愚劣な競争といった新聞の問題をそっくりそのまま抱え込んでいる。

75年経っても人間は大人にならず

 寅彦の予測通りにならなかった理由は、「ほんの孩児のやうな」我々人間は75年経っても依然として孩児であったということだろう。映画館に行かずとも自宅のテレビで、あるいは手元の携帯電話で、ニュース映画、つまり動画のニュースを見ることができる。ただ、そこから宝を掘り出せる人は少ない。大体、テレビのニュース番組の多くは、「人間の頭脳の活動を次第次第に萎縮させその官能の効果を麻痺させる」新聞記事を基に作られている。さすがの寅彦も、新聞記事の見出しを張った壁を写し、コメンテーターがそれぞれの類型的意見を放言するテレビ番組が毎日放映されるとは思わなかったろう。

 無論、テレビ局を含めたジャーナリズムの問題も依然として大きい。ニュース映画が価値を持つために寅彦は「撮影技師の分析的頭脳と、フィルムの断片を総合する編集者の総合的才能を必要とする」と喝破した。これは新聞や雑誌の記者、編集者にとっても必要な才能であり、課題である。

 ジャーナリズムの問題を知った上で、あえて記者を職業にしている筆者から寅彦に向けた反論を書いておく。類型化や抽象化の作業、すなわち宝の地図はやはり必要なのである。宝が埋まっているニュース映画をそのまま見せられても人間は持て余してしまう。実だけを渡されてもそれを役立つようにはできない。虚も必要である。実数だけでは科学も技術も成立せず、虚数が必要になったようなものだ。ただし、不正確な虚数を使っては成果を得られない。記者の仕事は現場という実にできる限り密着して取材し、そこからいったん離れて、できる限り正確な地図という虚を作り出すことにある。いや、記者の主観や見識が入った地図になるから、正確という表現は相応しくない。分析的頭脳と断片を総合する編集力を総動員し、できる限り役に立つ地図を作る、ということだ。