『ニュース映画と新聞記事』を発表した1年後、寅彦は『ジャーナリズム雑感』という論文を中央公論に発表、さらに厳しくジャーナリズムを批判した。こちらはかなり長い文章で全編にわたってジャーナリズムや新聞に対する批判と皮肉が盛られている。ここでも寅彦の矛先は型に嵌め込む新聞記事の抽象化手法に向けられる。

ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。今朝起つた事件を昼過迄に出来るだけ正確に詳細に報告しようといふ注文も此処から出て来る。此の注文は本来甚しく無理な注文である。(中略)この不可能事を化して可能にする魔術師の杖は何かと調べて見ると、それは具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化とでも名づけるべき方法であると思はれる。(中略)某殺人事件の種取を命ぜられた記者は現場に駆付けて取敢へずその材料を大急ぎで掻集めた上で大急ぎでそれを頭の中の型録(カタログ)函の前に排列してさうして差当つて一番嵌まりさうな類型のどれかにその材料を嵌込んでしまふ。(中略)読者の頭の中にも矢張り同じ物語や小説やから蒐集したあらゆる類型がちやんと用意されてあるのだから、(中略)納得し、満足し、さうして自分では容易に出来ないのを他人のしてくれた殺人のセンセーションを享楽することが出来るのである。

類型の幻想を撒き散らす新聞

 この類型化力によって、事実とはかなり違った内容の記事が出来上がってしまうこともしばしばある。さらに寅彦は「新聞はその記事の威力によつて世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き広げ、恰も世界中がその類型で充ち満ちてゐるかの如き錯覚を起こさせ、さうすることによつて、更にその類型の伝播を益々助長する」と書く。その例を寅彦はいくつか書いており面白いので紹介する。75年前に書かれたものとは思えない、2008年のマスメディアを論じているかのようである。

●三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するやうなものである。ゆつくりオリヂナルな投身地を考へてゐるやうな余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行つたのでは「新聞に出ない」のである。
●忠犬美譚で甲新聞が人気を呼ぶと、あとからあとから色々な忠犬物語が方々から出て来て、日本中が犬だらけになり昭和八犬伝位は瞬くひまに完成するのである。
●甲社で例へば「象の行列」を催して、その記事で全紙の大部分を埋め、その殆ど無意味な出来事が天下の一大事であるかの如き印象を与へると、乙社で負けては居ないで、直ちに「河馬の舞踏会」を開催して此れに酬ゆると云つたやうな現象の流行した国もあつたやうである。

 さらに寅彦は自身の専門である科学関連の記事に於いて、「現在の日本のジャーナリズムがその魔術の呪縛に破綻を示してときどき醜い尻尾を露出する」と批判する。技術に関する言及もある。「今の科学的な利器は単に独創的な素人の思付きや苦心だけで完成するには余りにも多くの専門的知識の素養を必要とする、といふ明白な事実が日本のジャーナリストに一般には認識されてゐない」という指摘は75年後の今でも通用しよう。

 類型化の問題、科学や技術への理解不足に加え、新聞社同士の愚劣な競争により、ジャーナリズムの誤りは決定的になる。「唯一日を争ふ競争は又ジャーナリズムの不正確不真実を助長させるに有効である。(中略)事実の競争から出発して結果が嘘較べになるのは実に興味ある現象と云はなければならない」。