物理学者の寺田寅彦は1933年1月、「将来に於ける新聞は最早社会欄なるものの大部分を喪失して居る」と予測した。その根拠は動画像メディアの出現であった。寺田は「広い意味でのニュース映画によつて、人間は全く新しい認識の器官を獲たと云つても甚しい過言ではない」と動画像メディアを高く評価したが75年後の今、依然として新聞には社会面がある。予測はなぜ外れたのだろうか。

 本題に入る前に、この場を借りてTech-On!読者の方々にお礼を申し上げる。ありがたいことに前回の拙稿は多くの方に読んでいただき、5人の読者がAnnex欄において長いコメントを付けて下さった。5人のうち一人は先輩社員なので敬語を使うのはいかがなものかと思うが、5人とも「虚実」という題名に込めた筆者の意図を的確に探り出しておられる。

 筆者は前回、本連載について次のように書いた。「正直に書くと、連載の題名や企画は後付けであって、自分が書きたい話のネタをいくつか並べてみたところ、いずれも虚の世界、あるいは虚実の世界の話であったので、こういう題名をひねり出した。つまり、書きたいことを書いていきたい」。著者が「正直に書く」とわざわざ断っている場合、案外正直ではないことがある。拙稿はまさにその例であり、はっきりした統一テーマがあったからこそ、かような題名を付け、主旨文を書いたのである。

 「嘘を書くとはけしからん」と立腹される読者がおられるかもしれないが、まったくの嘘というわけでもない。実際には、書きたいテーマと書きたいネタがほぼ同時に浮かんだ。しかし、「これから何々について書きます」と宣言するのは芸がないと思い、あのような表現にした。ネタとは実際に書く具体例だから実であり、テーマは抽象的内容なので虚である。かように虚実はいつも入り乱れる。