名目はある。加害者の生い立ちから友好関係までを暴き立てることはメディアに課せられた「真相解明」の責務を忠実に実行している証ということなのだろう。ただ、あまりに加害者の人間性を無視した報道などをみると、「名目があり、市民感情という盾があれば何をやってもいいと勘違いしてないか?」と、思わずつっ込みたくなってしまうのだが。被害者に関する報道だって「命の大切さを伝えるために必要なのだ」とか言うかもしれないけれど、一方で涙ながらに「極刑を」と訴える場面をいかにも「そうだそうだ、死刑にしろ」と言わんばかりに何度も流したりしてるし。

 このようなスタイルは一般に「大衆迎合報道」などと呼ばれる。しかし、その根っこは保身だろと、私は思う。声高に何かを訴えたい。けれど、その反応が知れないのにそれをやるのはかなり怖い。だから、名目とか市民感情といった、しっかりした盾の後ろで身をかばいつつ、いかにも告発風な声高の報道をする。与党政治家や官僚、問題を起した大企業経営者などを言い訳無用とばかりボコボコに叩きまくる報道の一部も、同類ではないかと思うのである。

 いや、実はそんなことを偉そうに言える柄ではない。自分だって、言いたいこと書きたいことがあっても、「これはヤバイかな」「非難が殺到したらどうしよう」と思えば、ひるんでしまう。「いやいやそんなことではいかん」と思い直すのだが、結局は何十にもオブラートに包んでしまい、その挙句、まったく味がしなくなってしまったりする。

 もちろん、これも立派な保身である。深く反省したい。