そもそも、このような格差のある2者間では対等な契約関係が築けるはずがない。とすれば、初めから契約そのものが適正に存在しなかったと考えるのが衡平の原則である。歴史的には一般法に対し、時の権力者が法の適用が招くアンバランスを是正する機能や権限を持つとして生れてきたようだ。大した生活の知恵である。

 ところで、地球温暖化問題に衡平の原則を適用したらどうなるのだろうか。温暖化の原因は人類が排出して来た温暖化ガス(GHG)である。とすれば、その責任は誰がどう取るべきか。その判断に当たって衡平の原則に立てばどのような基準が採用されるべきなのか。なかなか興味深い。

 温暖化は世界の問題だと考えれば、世界の国々が皆で共通の責任を取るのが筋だとなる。でもこれは衡平なのであろうか。世界には200を超える国がある。それらすべての国が同じ基準で負担を負うというのは一見公平にみえるが、そうでもない。そもそも温暖化の要因は過去に排出されたGHGが原因と考えれば、先進国がまず責任をとって温暖化対応に取り組むべきとなる。「これまでGHGをあまり排出してこなかった我々はその責任からはずされるべきだ」と主張する途上国に理があるのである。実際に、世界はこの考えを受け入れた。1992年の国連気候変動枠組条約の中に「締約国は衡平の原則に基づき、かつ共通だが差異のある責任及び能力によって現在及び将来の世代のために気候系を保護すべき」と書かれている。

 衡平の原則が我々に求めるのは形式的な公平さではなく、もっと物事の本質を考えた上での衡平さである。世界と議論する時に忘れてはならない概念だ。

過去責任と将来責任

 だが、温暖化問題はそれほど単純ではない。確かに過去の排出量は先進国が圧倒的に多かった。現在大気中に存在するGHGの約7割は先進国からだといわれている。ところがこれからの排出となると状況は一変し、間もなく途上国が先進国を追い抜くようになる。過去のGHGだけが悪さをするのではない。将来のGHGも温暖化を促進する。

 となれば、その将来のGHGをどうコントロールしていくのか。京都議定書の時点、すなわち1992年当時に先進国に入っていない国で今では先進国の仲間入りを果たした国々、途上国の中でも経済開発が著しい国々でポスト京都の時代(2013年以降)には先進国になる国々、それに準じた扱いが相応しい国々と、同じ途上国の中でもこれだけ色合いが違うのである。

 それらの国々にどのような基準を当てはめるのか。過去と将来のバランスをどうとって行くのか。これが国際交渉で忘れてはならない第3の視点である。