得られるものと失われるもの

 ネット環境が急速に進化し、各種の検索エンジンが手軽に提供されるようになりました。なんでもとりあえず『ググる』と、とりあえずわかったような気になります。マシンは大量の情報を高速に扱うシーンでは人間を大きく凌駕します。特に均質な情報を扱う時にマシンの力は絶大です。

 一方で多重化された知を見抜くことは当分マシンにはつらいところでしょう。このコラムの中に何個の「の」が出現したかをカウントするのはマシンの得意技ですが、どこの段落で次ページに改頁すれば読者は読み続けてくれるか?という判断は機械にはしんどいわけです。

 手に入る情報量の爆発的な増大をうけて、検索エンジンの恩恵があまりにもわかりやすいために、時代の趨勢は、均質情報の大量処理にむかって爆走しています。一見パワフルなこのアプローチですが、効率を上げた分だけ、品質が落ちている危険性をはらんでいることに注意しなくてはなりません。形式知を大量高速に流すと、流し難い暗黙知は取り残され、あたかもそんなものはそこにはなかったかのように扱われてしまうのです。それはソフトでいえば、行間に忍ばせる情感であり、ハードの言葉で解釈すれば、上述の「ビビり度」のようなものです。上述の全自動測定器を何百万回稼動させても、未来永劫ビビり度の視点は出てこないのです。

 プロ将棋の世界で、似たような現象が懸念されていると聞いたことがあります。IT技術やネットインフラが整備され、過去に蓄積された膨大なプロ棋士の棋譜が簡単に入手・解析できるようになりました。これを頭の中にダウンロードし、受験勉強のノリで「傾向と対策」をすることで成績は大きく伸びるのでしょう。プロ初段だったかどうか記憶が定かでありませんが、とにかく一定の上級者レベルにまで非常に短時間で上達する若い棋士が増えたと言います。ところが皮肉なことに、そこで停滞してしまう者ばかりで、一段突き抜けた「超」のつく上級者はそこから生まれてきにくいと言います。