ご存知の方も多いだろうから概要だけを書くと、事件のあらましはこうである。信三郎氏は父が体調を崩したこともあり、1980年には務めていた朝日新聞社を辞めて父が経営する一澤帆布で働き始め、88年には代表取締役となる。その父が他界し、遺言状によって信三郎氏は一澤帆布の株式を相続したのだが、そこへ実家を離れて銀行員となっていた兄からクレームがついた。信三郎氏が持つ遺言状より後の日付となっている「第2の遺言状」があり、それには兄が株式を相続することが明記されているというのだ。第2の遺言状の有効性について兄弟は裁判で争うことになり、結局は「第2の遺言状を偽物とは断定できない」という判決によってで信三郎氏は株式を失うことになる。その結果として、新たに株主となった兄によって代表取締役の任を解かれ、信三郎氏は一澤帆布から追放されてしまう。

 裁判所の判決とは裏腹に、従業員は信三郎氏を支持した。全員が一澤帆布を辞め、信三郎氏と行動を共にすることを決めたのである。取引先も信三郎氏を支援した。帆布などカバンの素材を供給するメーカーなどが、信三郎氏が不在となった一澤帆布には材料を提供しないことを宣言する。さらには、信三郎氏を支援するための「勝手連」までできてしまった。主要メンバーは彼の友人たち、多くは「飲み友達」だという。その方たちにもお集まりいただいたことがあるのだが、大徳寺の禅僧、鮨屋の主人、NPOの役員などが手を取り合って気勢を上げるという、何とも不思議な光景だった。

絶対に変えようとしない

 個人や小さな組織であっても、それらが絆によってネットワーク化されたとき、そのクラスタは思わぬ力を発揮する。それを「オープン・ビジネスの最大利点」と位置づけ、その典型的なモデルを米国に求めるというのが一般的な解釈なのではと思う。けれども、京都では何気にそれが昔からできていたのである。そうであれば、何も「日本は垂直統合を得意としてきたので、オープン・ビジネスはどうも苦手」などと卑下する必要はまったくない。米国を模範にすることもない。日本の京都をお手本にすればいいではないか。

 米国より京都、と思う理由はほかにもある。両者がともに「上下ナシ」の関係構築を志向しながらもその質に微妙な差があるように感じることだ。一口に言ってしまえば「ドライ」と「ウェット」ということか。

 一般に、米国企業の経営判断はドライだと言われる。昨日まで親密にやってきた企業との関係を冷徹な判断で一夜に切り捨てた、といったニュースをよく目にするからだろう。その真偽はともかく、京都流はウェットである。一度信頼関係を構築したら、よほどの理由がない限りそれが崩れることはない。信三郎氏を支えた取引先や仲間たちの行動は、その典型例だといえるだろう。けれど決して特殊な例ではなく「京都はそんなものだ」とコンサルタントの南村与士重氏にうかがったことがある。

 南村氏は、京都の企業や商店などを主要クライアントとしつつ、長年にわたって京都流のビジネス・スタイルを研究してきた。そのなかで、京都流の経営スタイルが一般的な経営の常識からかけ離れていることに何度も驚かされ、成長ということに無頓着なことにたびたび歯がゆさを感じてきたのだという。