だから「会社を辞めよ」と、ことあるごとに中村氏は技術者に訴える。そうしない限り、経営者が考えを改めることはなく、技術者の処遇が改善されることはないと。

「給料は安くてもいいんです」

 その話を聞いて思い出したのは、大手エレクトロニクス・メーカー主催のパーティーでの一コマだった。ある役員が熟柿(じゅくし)臭い息を吐きながら私にこう言ったものだ。

 「ものづくりは実に面白い。その面白いことを毎日できるわけだから、技術者の給料は安くてもいいのです。それで十分幸せなんですから」

 やはりそういう考えだったのかと、ある意味納得した。いわゆる「理系離れ」を阻止する目的で、「小中学生を対象とした科学の面白さを体験するイベントを開こう」などと言い出す学者さんや経営者の方がおられるが、その発想も根っこは同じだろう。つまり、それが面白いことであれば、どんなに待遇は悪くても人はそれをやってくれるのだと信じているのである。

 そのこと自体は、否定できない。有名なところではマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』に出てくる「ペンキ塗りの話」などというものがある。トムは、いたずらの罰として塀のペンキ塗りの仕事をおばさんから言い渡される。その労働から逃れるために彼は一計を講じるのだ。トムをからかいに来た子供たちに「ペンキ塗りは労働ではなく面白いこと」だと信じ込ませ、進んで彼らにそれをやらせてしまう。無償どころか、大事なおもちゃという代償まで払わせて。

 よく「ひどい」と聞くのがテレビ番組制作に携わるADの仕事である。私の友人もそれを経験したのでよく聞かされるのだが、寝る時間以外はすべて労働というほど働き、それで給料はびっくりするほど安い。そんな生活を続けていても、正社員になってまともな処遇を受けられるようになれるのはごく一握りなのだという。それで文句があれば辞めればいいのだが、ほとんどの人はその仕事が面白いから辞めない。もし辞めたとしても、その仕事をやりたい人はいくらでもいるから、人手不足になることはない。こんな状況だから、処遇が改善されるはずもない。

効かない抑止システム

 企業の経営者が、「その習性を利用しない手はない」と考えるのは必然か。けれど、それをある程度抑止できる制度が、昔は機能していたのではと思う。たとえば労働組合だ。団結して処遇改善を訴えることによって「経営者の思い通りにはさせないぞ」というシステムである。