処方箋はあるのか

 では、それらの弊害はどうしたらなくせるのだろうか。それを皆無にすることは無理だとしても、緩和することは可能なのだろうか。そう考え続けてきて思い当たったことが、いくつかある。それらをまとめて一言でいえば、「格差というものに敏感な人間が、分業しながらも争わず、誇りを失わずに存立していく仕組みを作る」ということ。そんな立派なものがいとも簡単にできるとは思わないが、それを作ろうと知恵を絞り、行動することが重要なのだと思う。

 この仕組みの一形態については、以前に別のコラムで書かせていただいた。詳細はそちらを参照いただくとして、要点だけを抜き出してみたい。

すなわち、「組織を硬直化させ、みなが疑心暗鬼にとらわれてお金しか信じられなくなる」という現象が発生する原因の一端は、選ばれた一握りの人たちが、高い地位(役職)と権力(指揮権、人事権)のみならず、富までも得て、選ばれなかった大多数の人たちから士気を奪っていることにある。それを解消するには、例えば役職と給料を切り離せばよい。管理職にあるものは、指揮権を持つ。けれど、その権力の大きさは給料の高さを保証しない。こうして、「地位」「権力」「富」「名誉」といった優位性を、「独立したパラメータ」にしてしまうのだ。

 身近な例でいえば、プロ野球チームがそう。人事権を持つのはオーナーだが、現場の指揮権までは振るわない。それを担うのは監督だが、その任にあるものがチーム一番の高給取りということではない。監督より10倍以上稼ぐ「平」の選手が監督の指揮下にいくらでもいる。ただし、その年棒は人気と必ずしもリンクしない。若くて薄給だがファンから熱狂的に支持される選手もいれば、すでに下り坂でもチーム内で尊敬される選手もいる。それでいいのだ。

人事にも市場原理

 もう一つ、「人材の流動性がない」ということも多くの人たちから士気を奪う原因となっているのではないか。ものの本によれば、かつて多くの日本企業が採用していたのは「職能主義」であるという。「能力があれば実績があがるだろう」という予測のもとに人事制度を組み立てる方式だ。これに対して成果主義では、能力があっても、どんなに努力しても結果が出なければ評価をしない。つまり、能力があり努力しても結果が出なかった場合は、その責任をすべて社員に負わせるのである。

 ただし実際には、成果が出ないのは企業の経営判断に属する問題かもしれず、上司の能力が低いせいかもしれない。けれどもそのような問題は、成果主義だけでは十分に抽出できない。最悪の場合は、低い評価を付けつつ働かせ続ける、いわゆる「飼い殺し」が横行することにもなるだろう。つまり成果主義というものは、「悪い評価を受ける」ことを担保する別の制度をこれに抱き合わせなければ健全に機能しないのではと思うのである。

 それが、リソース流動性の確保である。つまり、上司によって自分が評価されることを許容する代わりに、自身で上司を選ぶ自由を保証してもらうのである。例えば、自分の評価が低いのは上司や部署のせいだと思った人は、申告によって簡単に異動させてもらえるようにすればよい。こうすることで、「能力の低い上司」「スジの悪い事業担当部署」からは部下がどんどん逃げていく。自律的に「選択と集中」が起こるのである。さらにいえば、日本企業の大多数が成果主義を導入するならば、企業内だけでなく社会全体にもこのような流動性を確保する必要があるだろう。

 そして、最後に挙げておきたい問題が、「私たちはきちんと主張ができるか」ということである。これがうまくできないから、大勢の人たちがフラストレーションを溜め込んでしまい、その結果として気持ちがささくれ立ってしまうのではないかと。文化というか風習というか、そんなところに根ざす奥深い問題である。

なぜ「バカみたい」にすると得なのか

 一つは、割り切りがうまくできないということ。よく聞くのは「米国人は、会議の席でつかみあいの喧嘩になるのではと思うほど激しい論争をしながら、夜になると同じ二人が肩を叩き合って談笑したりしている。すごいやつらだ」といった話だ。その割り切りができてこそまともな評価面談などができるのだろうが、私たちに同じことができるだろうか。

 そもそも私たちは、小さい頃から「奥ゆかしさ」とか「謙譲の美徳」などという倫理観を教え込まれている。大きな成果を上げたとしても、「いや私がしたことなんか大したことなくて、みんな××さんのおかげです」などという。本心はそうでなくても、そう言うことが習慣になっていたりするのである。全員がそうであれば問題も少ないだろうが「いや、みんな私の成果です」などという人もいたりするからややこしい。

 かつて、日本的な「そんなそんな私なんて」という風習について思索に耽っていて、こんな法則を思いついた。すなわち、「バカみたいにすれば得をする」の原理である。まず、人の様相として「バカみたい」、その反対の「偉そう」という二つのパターンを設定する。まず、バカみたいな場合、本当にバカでも誰も驚かない(評価は△)が、本当は偉かったりすると驚きとともに「本当はスゴいんだ」と言ってもらえるだろう(評価○)。逆に、偉そうにしていた場合、本当に偉くてもそれは当たり前(評価△)。逆に、偉そうでバカだったりすれば「なにあいつ、最悪」ということになる(評価×)。

 結果は明らかだ。真実はどうであれ「バカみたい」にしておくに越したことはない。そんな、人が生きる上での知恵が「奥ゆかしさ」の本質なのではと思ったりしたわけである。

 でも成果主義下の日本では、そうも言ってはいられない。とりあえず偉そうにしておくということが、新しき「生活の知恵」になるのだろうか。日本文化を愛する身からすれば、ずいぶんさびしいことではあるが。