同じホラーでも、日本の映画とあちらの映画では「ゴール・イメージ」のスケールがまるで比較になりません。日本の幽霊の起こす事件は、その多くが村の駐在さんレベルの事件の域を出ませんが、西洋の悪魔が出てくると大変。陸海空三軍の全力投入という大惨事になりがちです。ウルトラマンやスーパーロボたちの活躍するような怪獣映画になってしまうのです。アトムの場合もこちらの系譜でしょう。悩める若者の成長譚的色彩が主題ではあるものの、何と言ってもアトムの醍醐味は、悪党たちとの大格闘シーン。最強のロボ「プルートゥ」との戦いや、極めつけは暴走する太陽から人類を守るために、自ら犠牲となって太陽に自爆特攻しました。その姿は、あたかも人類の天敵サタンに聖戦を挑む神父さんのようです。

 アトムはなぜそこまでしなくてはならなかったのか? それは彼の誕生と幼少期の悲しさにあるのでしょう。天馬博士の亡き息子・飛雄君の代用品として気まぐれに作られたアトム。早晩飽きられてサーカスに売り飛ばされ、つらい幼少期を送りました。いろいろあってお茶の水博士の庇護の下で暮らすことになったアトムですが、そのトラウマは幼心に刻印されています。世界の平和を守るために大車輪の活躍の日々ですが、ちょっとでも失敗するたびに当局からの「解体処分」という最悪のプレッシャーがかかるのです。毎日が崖っぷち。彼は常にその存在価値をヒトに立証し続けなくてはならないアダルトチルドレンなのです。

 その視点でみると、鬼太郎の属する妖怪たちは、どちらかというと被害者ポジションを取っています。人による宅地大開発や森の生き物の乱獲。そういったものに対する怨念などがベースとなっていて、もともと人の側に負い目感があります。宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」に登場する蟲(むし)たち、あるいは「もののけ姫」に出てくるシシ神なども同じ系譜に当たるでしょう。彼らは自然界の代弁者であり、どちらかというと悪い者は我々人間の方かも、という構図になっています。

 つまり日本人の感覚では、天然に近いものほど相対的に正義っぽい。対妖怪では人間の方が悪者、だけどロボが出てくると、これは人間様より人工的なモノですから、お前たちの方が存在価値を立証すべしという序列が成り立っているのです。私たちの世界観においては、天然に近いほど清浄であって、人や人工物は穢(けが)れたものなのです。日本古来の宗教の形を色濃く残す山岳信仰の修験道も、自然に同化することを最大の目的としているように見えます。

 これが、西洋文化圏では様子が異なります。人以外の知的生命体には、絶対正義の神様と絶対悪の悪魔しか居場所がありません(イギリスや北欧などローマからみた「辺境」には、土着信仰の妖精も一部生き残っています。ケルト系のフェアリーや、チュートン系のエルフなど)。ねずみ男やオーメンの主人公ダミアンは人と魔界の生き物との「ハーフ」ですが、ダミアンの場合には、黒い企みが裏にあって、それはこの世の転覆。人間界としては絶対に阻止しなければならない恐ろしい魂胆なのです(あの陰陽師・安倍晴明も狐を母に持つハーフです)。

 一方で、ナウシカの蟲も、鬼太郎の妖怪も基本テーマは共生ですから、本心は人類との和解と共生を望んでいます。いつかはお互いが理解し合い、共に手を携えて仲良く暮らせるはずの仲なのです。この価値観は、一段スライドして、人工物であるロボットと人類の間にも成立しているのが私たち日本人のロボット観なのだと思います。負い目を感じるべきはロボ側であるものの、本質的には共生できるはずの、同根の存在なわけです。

シーズアウトとマーケットイン

 ここまで、彼我のロボ観の違いについて述べてきましたが、もう一つ大きな…(次のページへ