すなわち、欧米の伝統的な絵画や彫刻は、風景でも人物でも、極めて写実的に描写する。だから、これを実現するための手技(スキル)が極めて重要な要素になるのである。これに対して日本の古典的芸術では、主題となる風景にしても人物にしても、現実の姿と酷似しているとは言い難い。山水画に至っては、多くの場合は現実の風景とは似ても似つかない想像上の風景、つまりは心象風景なのである。

 それを鑑賞する者は、そこから漂う作者の境地といったものを味わう。だから、芸術家としての修行は、スキルの習得もさることながら心象風景の発生源である精神を磨くことに比重を置く。特に「書」という、西洋では芸術としてついには独立し得なかった分野において、その傾向が極めて強い。

 乱暴に言い切ってしまえば「技を磨け」というのが欧米的で、「精神を磨け」というのが日本的、というのが私の解釈である。では、精神を磨いた結果生まれるのは、どのような人格なのだろうか。

 昭和初期に勃興し、今でも芸術・文化・芸能の分野で大きな影響力を保持している思想に、「民芸」というものがある。その主張は「無垢で美しい心の人間が無心に作るという行為が美を生み出すのだ」というもので、その論からいえば、「名誉も地位も求めず、もちろん金銭などとも無縁な愚直で朴訥な人」というのが、その人物像にふさわしい。

魯山人の性格

 けれど、そう簡単な話でもないのである。例えば北大路魯山人は、その作品のずば抜けた水準の高さで今日でも極めて評価の高い芸術家だが、多くの証言から推し量るにその性格は傲慢かつ卑俗で、どうにもやりきれないものだったらしい。そんな人格が操る掌から、どうして宝石のような作品が生み出されるのか。

 どうやら、世に言う人格者、あるいは愚直な人、朴訥な人であることが、美の創造者としての必須条件ではなさそうだ。それでも、「日本の美」ということを考える上で、精神とか心とかいったものは、どうしても切り離せない。それも確かなことであると思う。その、併せ呑みがたいことがらを、あえて両立させてしまおうとすれば、「美のかたちが一つではないように心のあり様もまた一つではない」という、身も蓋もない説明になってしまう。

 それだけのことかもと思いつつ、それでも何か、「日本の美」を魔法のように紡ぎだす人たちに共通する、普遍的な何かがあることを予感する。その、得体の知れないものに惹かれ続けている自分がいるのである。


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 その秘密に触れ得ただろうか。刷り上った本を読み返しながら、そう自問している。ただ、こうは言えるだろう。そこには予期した通り、脈々と流れる何かがあり、個々の姿勢や志向には、相反しながらも共鳴し合う何かがある、と。

 「つべこべ言わずに。それが何なのかをさっさと示してみろ」とお叱りを受けそうである。けど、どうにもそれはできそうにない。「いや、私の表現能力が及ばなくて」というのが表の言い訳である。けれど本心では「そこには触れないので、ぜひ買って読んでいただいて、ご自身で感じ取っていただきたい」と願っている。やはり私も会社員だから、自分の手掛けた書籍が売れないと、職場での立場が悪くなるのである。

(文中、故人の敬称は略させていただきました)