よろこんで文字盤をみたのだが、○○jewelsと書いてあるべき場所にはPRECISIONとか書いてあるだけで、何石かわからないのである。あれ?と思い、デパートに行って他のスイス製高級ブランド時計を見てみると、確かに○○jewelsと書いてあるものはほとんどない。恐る恐る店員さんに「書いてないけど何石なんですか」と尋ねてみると、ちょっと怒ったような顔で「そういうことは一流ブランド品には関係ないことだ」と答えるのだった。目から鱗が落ちた。

 ではスイスの時計は何を誇っているのかと考えても、文字盤やパッケージを見てもよくわからない。カタログなどを見ても、上品な商品写真と簡潔な説明書、簡単な会社の概要などがやたら細かい字で書かれているくらい。いかにも品のいい鼻眼鏡の職人さんとか、貴族の屋敷みたいな工房の写真とかがさりげなく載っていたりすることもあるけれど、ただ漠然と「きれいだなぁ」とか「かっこいいなぁ」とか思わせるだけである。

 何なんだ、この世界は。体験せねば分かるまいということで数年前、「これも仕事の一環なのだから出費は仕方がないことなのだ」とか妻を煙にまき、「Breguet」という高級ブランド時計を買ってみた。もちろん、格安の中古だが。見ると、文字盤には小さく「BREGUET 1629」としか書いてない。時計の裏面を見ると、1629Gという番号が彫ってある。この数字は何なんだと思ってインターネットで調べてみると、各個体に振られた固有の番号とのこと。これを調べることで製造年や製造担当者などがすべて分かるらしい。公式サイトを見ると、「盗難届けが出ている製品の番号一覧」まで用意されている。

江戸時代、我々もそうだった

 さらに、時計マニアの情報サイトなどを調べてみると、おそろしいことがわかった。文字盤のベースには純金の板を使っているのだという。ただし、金色では視認性がよくないので、表面に「ギョーシエ彫」とか呼ぶ細かい加工を施し、さらには銀メッキを施しているのだとか。これは別のブランド時計の話らしいが、ケースはステンレス鋼でも自動巻きの振り子には「密度が高いから」という理由で金を使うとかいうこともあるらしい。

 いやいや、えらい世界だなと感心した。けど、これこそ「本来は日本の得意技では」とも思うのである。古くはすでに室町時代には、世阿弥先生が風姿花伝の中で「秘すれば花なり」とおっしゃっているではないか。

 倹約令とかの影響も大きいようだが、江戸時代のファッションなどは、この「こだわり抜いてカネをかけているけど、それをあえて隠す」というパターンのオンパレードである。

 例えば着物の生地として使われた紬(つむぎ)は、れっきとしたシルクなのに木綿地に見えるように織り上げたもの。「純金の上に銀メッキ」の先輩である。そんな、一見地味な着物だが、見えない裏地に表地の何倍もの金をかけて、やたら凝ったりする。もっとマニアックな例では、まったく見えない足袋コハゼ(留め金)に金を使うなどという例もあったようだ。粋人は、印籠や煙草入れといった、目立たない小物にもこだわった。ぱっと見は木綿風の粗末な着物。そこにさりげなく、家一軒も買えそうなほど高価な、凝りに凝った印籠を下げていたりしたようなのである。

痛みに耐えて脱皮できるか

 これって、現代の男性ファッションそのものではないかとも思う。あるアパレルメーカーの企画担当者によれば、「今の若い人はジーンズにTシャツで、一見あまり金がかかっていそうに見えないけど、実はそのジーンズがビンテージもので10万円もしたりする。それに100万円もするような腕時計を合わせたりする」のだという。まるで同じではないか。

 ただ、いくら「高級ブランドはそうしている」とか「消費者もそのような感覚に変わってきているらしい」と説いても、商品を売る立場の者があえて「秘すれば花」的な戦略に切り替えることは勇気のいることだと思う。「必死にアピール」することをやめれば、短期的には売り上げが落ちるかもしれない。それに耐えて、「こだわってるけど言わない」という姿勢を貫いたとしても、そのことが効果を生むまでには長い時間が必要になるかもしれないからだ。マイナス効果には即効性があり、それより大きいであろうプラス効果の要因は遅効性なのである。たぶん。

 担当者もそれに耐え、経営者もそのことを深く理解し、株主を説得しつつ同じように耐えなければならない。「つまり、愚直になれということですよね」。このテーマで、あるマーケッタの方と話をしているときそんなことを言われた。まあ、そうかもしれないが、どうも「愚直」という言葉を使うのには抵抗がある。前回のテーマではないが「愚直」と言われると「思考停止」を連想してしまうからだ。「愚かにみえるほど」であっても、本当に「愚か」ではマズいだろう。

 古人曰く、「大賢は大愚に似たり」。これなのだと思うのである。