新興国とのコスト競争に疲れた企業が声高に叫ぶイノベーション。このような企業は情報漏洩(ろうえい)に敏感である。最近はファイヤウォールだけでは飽き足らず,パソコンの持ち出し禁止,USBメモリ禁止,携帯電話取り上げなど仕事がやりづらい。さらに,部屋に入るのにICカードや指紋認証を利用するなど入退室管理もやかましい。人と人との触れ合いにも支障をきたす現状である。

 でも,これで秘密が守れるのだろうか。技術者を締め上げるだけで守れるなら秘密防衛も簡単だ。先端企業の生産情報を知るために,工場の向かいの部屋を借りて入退場する車両を記録しているライバル企業があることを知人に教えられた。なるほど,仕入れ先や仕入れ量,納入先が分かれば,ライバル企業にとってはメリットが大きいだろう。

 もっとも私なら,もっと簡単な,そしてもっと効果的な手を使う。「オレオレ詐欺」などに代表される,人を信用させた上でだます“Social Engineering”を利用するのだ1)。ターゲットは人である。前述の例であれば,工場を出入りする従業員に着目する。その中で暗い顔をして出入りする従業員を探す。気が弱そうで,冴えない容姿で,内にこもっていそうなタイプの従業員がよい。目星を付けたら,帰り際に後をつける。まずは,ヤサ(自宅)を押さえる。家族構成を確認する。次に,帰りに立ち寄る店を探す。飲み屋が良い。そこで,一人で悪い酒を飲んでいれば最高。後はこちらに引き寄せるだけである。

 酔いが回ったところで,きっかけを作る。酒をこぼして,謝って,おわびに一杯ご馳走する。まずは,世間話から。次に愚痴を聞きだす。政治の愚痴,世間の愚痴,会社の愚痴,家族の愚痴。親しい人には話せない愚痴でも,なぜか行きずりの相手には話せるものだ。タイミングを心得た相槌と追加の酒が必要である。「そうだ,君は悪くない」「まあ,一杯」「それは会社が悪い」「おっととっと,旨い酒だね」「君は正当に扱われてないよ」,などなど。

 相手の素性を把握したところで,日を変えて協力を依頼する。低姿勢から始めて,声高に。まずは簡単な仕事から,そして徐々に深みに誘導する。そう,会社に不満を持っている優秀な人の名前や面相を教えてもらうだけでも良い。または,その優秀な人を知っている人を紹介してもらうだけでもよい。

 本命は企業情報の中枢にいて,会社に不満を持っている人である。ここまでくれば,後は金か,恫喝か,なだめすかすか。そうすればトップシークレットを,さらにはその優秀な人ごとかっさらえる。人を奪うだけでも,相手企業にダメージを与えられる。ターゲットを人にしたとき,ファイヤウォールもUSBメモリの禁止も,指紋認証の利用も役に立たない。内部の人間,しかも正式に認可された人間を奪うのだ。Social Engineeringを利用すれば,ここまでの効果を見込めるのだ。

 日本の企業は人を大事にしない。リストラの大鉈を振るったのは経営者側である。失われた10年は,技術者にとってもつらい時代だった。企業の業績は回復したが,技術者の懐までは及んでいない。技術者はイノベーションを生むニワトリであるが,餌は最小。卵は経営者のものである。不満は溜まっている。

 周りを見回してほしい。企業に貢献しながら評価されない技術者がいる。その人が暗い顔をしていたら要注意である。そして,変な男や女に目を付けられたとき,彼らから技術者や技術者の家族を守る体制は会社にできているのだろうか。イノベーションを標榜する会社に暗い顔の技術者がいて,そして,守る体制が出来ていなければ,その会社の技術は流出する。セキュリティ・システム導入に要した数千万円,数億円の投資はどぶに捨てたも同然である。技術者を守れない,技術者を締め上げるだけのシステムを作った責任者は誰だ?

参考文献
1)ケビン・ミトニック,『欺術』,ソフトバンククリエイティブ,2003年.