いくつかの出来事が相似形に目に映る時、なにかそこに法則を見出したいと思うのは、科学的精神の萌芽である。

 相撲界で新弟子が死亡する事件が起きた。その事件の真相自体は明らかにならないまま、相撲界の体質が問われることになった。「かわいがり」という名のしごきが行われていて、親方はそれを弟子たちにけしかけ、隠蔽しようとしたのである。

 これと亀田騒動が似ている。もっとも似ているのは、渦中の相撲界と亀田史郎氏が、ともにまったく論理的な説明ができなかったことだ。角界では、朝青龍問題でしどろもどろになった高砂親方から、新弟子死亡疑惑の時津風親方、さらに両者を統括管理すべき北の湖理事長まで、世間を納得させる説明ができなかったことが、タガのはずれたような追及を生んだ。

 相撲界では、それぞれの親方が一国一城の主であり、他の部屋のやっていることを詮索しないという不文律があったという。しかし、その後続々報道されたのは「時津風部屋で起きた集団リンチは特別なことでなく、どこの部屋でも行われていた」という事実だ。

 ところが、10月9日には新時津風親方が決まり、新しく出直すことを宣言した。その翌日というタイミングで挑戦者亀田大毅選手(18)対チャンピオン内藤大助選手(33)によるWBCフライ級タイトルマッチが行われると、まるで主人公だけを入れ替えるように、世間の関心は亀田選手に移ってしまった。

 17歳の新弟子が無残に殺された(かもしれない)疑惑は、1日にして大毅選手のサミング、投げ技という反則、それを指示したとされるセコンドの父史郎氏と兄興起選手への批難にとって代わってしまった。

 「マスメディアは移り気である」と言ってしまえばそれまでなのだが、それだけではないだろう。時津風問題と亀田家の報道は、そもそも両立できなかったのではないか。カブっていたから。本質は同じものであることを無意識に感じ取っていたから、マスメディアは両者を同時に扱うことを避けた。その結果が「交替」だったのではと思うのである。

 そうでもなければ、この交替劇はあまりにきれいすぎる。北の湖理事長や時津風親方と同じく、まったく説明下手な亀田史郎の登場は絵に描いたよう、まるで、別な穴に属する同種のムジナが現れたかのようである。

 では、どこがカブっているのか。何が同じなのか。そのモヤモヤを拭き消してくれたのが氏家幹人著『サムライとヤクザ』(ちくま新書)だった。氏家氏が俎上に乗せたのは「男」である。

「戦争を稼業に人殺しを本領にしてきた荒々しい男たちの一部が、戦国の世の終焉によって武将や大名に上昇転化し、徳川の体制に組み込まれていった。その過程で戦士(戦場)の作法だった『男道(おとこどう)』は色あせ、治者あるいは役人(奉公人)の心得である『武士道』へと様変わりしていく」

 戦場の武士は長生きすることをよしとしなかった。言われればそうかなとも思うが、長生きだけが大事のようないまの世の中にいては実感できない。ところが、今の世にも「もののふ」と言い「男らしさ」をことあるごとに強調する職業があるではないか。政治家、そして役人だ。

 男らしさを強調する世界といって、すぐに思いつくのは男色の世界。なるほど「男」を「男色」と読み替えてみれば、相撲界の「かわいがり」の理由もよくわかる。そんな野蛮で無意味な世界に弟子たちをつなぎとめる絆は「男」というもの以外にないではないか。

 負けたら「切腹する」と言った大毅選手は、沈黙の後、金髪を切り坊主頭で謝罪会見にでてきた。一方、『サムライ~』では、細川ガラシアの自害後、逃げ延びた家臣稲富伊賀(直家)の命を主君細川忠興が奪おうとするくだりが描かれている。慶長5年(1600)のことだ。しかし、この稲富が鉄砲打ちの名人であったことから、徳川家康がその腕前を惜しむ。家康は忠興に、稲富の「男道をやめさせ」るから許せと言う。つまり、剃髪。大毅選手と同じだ。

 坊主にして謝るというのは、「男をやめる」という深い意味があったのだ。そうだとすれば、男をやめさせられた大毅選手は大変なショックであろう。心の病うんぬんでなく、会見で一言もしゃべれないのが当然なのだ。

 思えば、2007年はこうした「男」が言論の標的になってきた年ではないだろうか。5月末、松岡農水相が自殺したとき東京都知事の石原慎太郎氏は「死をもって償った。彼も侍だった」と言葉を添えた。

 法治国家の首長による発言とはとても思えない。もし罪があったのなら、それを法廷で述べ、法が定めた罰に服するのが国民の務めだ。死んだからといってなんの償いにもならない。それを「侍だった」と言い、それで何となく通じてしまうのだから「サムライとヤクザ」はまだ脈々と生きていると考えるべきだ。

 ワイドショーで、「(亀田選手は)犯罪を犯したわけでもないのになぜこれほど追及されるんですか?」という素朴な質問を女性コメンテーターが発したとき、法曹関係者だと思うが、あわてて「いや、リングというルールに守られた世界だからスポーツと言えるので、そのルールを破ったら犯罪者と同じ」とコメントした男性がいた。

 筋は通る。が、相当苦しい解説だ。リングで犯した反則は傷害罪だとしても、全国民を挙げて糾弾するほどの罪ではない。問題は、そこではないのだ。

 真に国民的に不快だったのは、亀田一家が説明でなく「男を通そう」とし、しかもそのやり方が「男」をわかっている層からみても、まったくなっちゃいないものだったからに違いない。昔、いじめられっこだった内藤選手に「いじめてやる」と発言したことは、弱者への思いやりに欠ける男らしくない行為だ。戦いが終わった後、相手の健闘をたたえることなく、逃げかえったことも。

 要するに、相撲界と亀田を裁くつもりになっている人々のかなりの部分が、「男か、そうでないか」を基準にしているのである。もし、法的にどうかということが問題の本質であるなら、こんな大騒ぎにはなっていなかったはずなのである。

著者紹介

神足裕司(こうたり・ゆうじ)
1957年広島生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。筒井康隆と大宅壮一と梶山季之と阿佐田哲也と遠藤周作と野坂昭如と開高健と石原裕次郎を慕い、途中から徳大寺有恒と魯山人もすることに。学生時代から執筆活動をはじめ、コピーライターやトップ屋や自動車評論家や料理評論家や流行語評論家や俳優までやってみた結果、わけのわからないことに。著書に『金魂巻』『恨ミシュラン』あり。