「本当に困ってるんです」。先日、あるアメリカ人ジャーナリストの方にお会いしたら、いきなりグチをこぼされた。何でも、アメリカの本社から「日本のゲームショウを取材せよ」との指示を受けたらしいのだが、彼女自身はゲームに興味はなく、何の知識もないのだという。「だいたい、日本のアニメとかゲームって、何なのよ? 何でそんなに人気があるの? そんなものが世界で人気があるからって、日本人はうれしいの?」。ここまでくると、八つ当たりに近い。

 まあ、気持はわからぬでもない。アメリカから友人などが日本に来ると、必ず秋葉原に連れて行け、中野(このところ急速に秋葉原化が進んでいる)に連れて行けとうるさいのだとか。実際に行ってみれば、絶大な人気があることはよくわかる。けれど、彼女にはその良さかちっともわからないらしい。友人をもてなすためとはいえ、さぞや苦痛なことだろう。

 そんな彼女に同情しつつも「まあまあ、浮世絵だって江戸時代にはアニメみたいなものだったわけだし、ポップカルチャーをそれほど卑下する必要もないのでは」となだめてみると、「別にポップカルチャーが悪いとは言わないけど、もっと誇るべきものがほかにあるような気がするのだけど」と言われてしまった。なるほど。それは確かにあるかもしれない。

 別の日本人ジャーナリストに、こんな話を聞いたことがある。彼女が大学卒業後、フランスにホームステイすることになったときのこと、滞在先の家族に自己紹介をすると、その家にいた高校生の男の子に「大学では何を専攻していたの?」と聞かれた。「日本文学」と答えると、その男の子はにっこり笑い「じゃあ、井原西鶴のことを教えてくれる? おれ、ファンなんだ」とせがまれたのだという。

論理性なし

 まあ、井原西鶴などというのはかなり希少な例だろうが、「海外では有名ですごく高い評価を受けているが、一般的な日本人はそのことについて聞かれてもほとんど答えられない」というものが、普段は気付かないけどけっこうあるらしい。何人もの外国人から、そのことを指摘された。

 その一つに「ZEN(禅)」というものがある。石庭で有名な京都の龍安寺などに行くと、縁側で見よう見まねの座禅などをしている観光客をよく見かけるが、そのほとんどが外国人だったりする。それはよほどのマニアだとしても、欧米では一般的に「ZEN」という言葉が知られており、それに神秘的魅力を感じる人は多いのだという。ところが日本では、高校でも「禅とは何か」など教えてはくれない。少なくとも私には、学校で習った記憶がない。

 試しに、江戸時代の有名な禅僧である「白隠慧鶴(はくいん えかく)」をウィキペディアで調べてみたら、さすがにあった。ひょっとしたら英語版でもと思って「Hakuin」で検索してみると、こちらもちゃんとある。しかも、その記述は日本語版より断然長い。近世の有名人である「鈴木大拙」についても調べてみたが、やはり英語版の方が詳しかったりする。何だか複雑な気分である。

 この禅という、宗教なのか哲学なのかよくわからないものに、私自身はいたく惹かれている。邂逅は、趣味の茶道だった。お茶の方では床の間に好んで墨蹟(禅僧が書いた書)を掛ける。その語句(禅語)の意味を調べているうちに何だか面白くなり、興が高じて『臨在録』や『碧厳録』といった禅の古典を手にとるまでになってしまった。これらの古典は1000年以上前の、禅の高僧と弟子などとの問答を収録したもの。漢文なので極めて難解である。ところが、これを現代文に直してみても、ちっとも読みやすくはならない。論理性というものがないからである。そこが面白いのだが。

一休さん

 一例を示してみたいと思う。先日、縁あって…(次のページへ