転職する際には,これまで在籍してきた会社になるべく迷惑を掛けたくない,と多くの技術者は思うだろう。現在抱えている仕事は,手離れのよい状態で後任に任せるなど,いろいろと誠意をみせることで,その後も良い関係を保っていけることになる。

 中途社員を採用する上では,グループ企業や取引先企業からは採用しないという原則のようなものがある。優秀な人材であるほど,転職された側の会社は被害が大きい。その被害を被った相手がグループ企業であったり取引先企業であったりすれば,その後の両社の関係が悪くなることはあっても良くなることはない。何より,転職した本人が一番つらいだろう。

 ところが技術者の転職には,きれいごとばかりは言ってられない場合もある。まったく違った業界に転職するならともかく,自分が身に付けた技術を次の仕事にも生かそうと思えば,グループ企業や取引先企業の場合もある。ただしこの場合は,なるべく双方の関係が悪くならないように配慮することも必要だ。

完成品メーカーの技術者に目を付ける

 以前,ある素材メーカーから相談を受けたケースを紹介する。当時,その素材メーカーは業績が良かったこともあり多角化をもくろんでいた。そして,これまでは手掛けていなかったメディア媒体事業に進出することを決定した。デジタル化が進展する上で,そのメディア媒体は需要が急増すると判断したからだ。

 素材メーカーではプロジェクトチームを結成。メディア媒体を発売する上で,競合他社と比較してどのような特徴を持たせるべきかなどについて議論を始めた。ところが,これまで素材自体の研究ばかりをしてきたため,メディア媒体がどのような装置でどのように組み込まれるのかが良く分からない。ユーザーが,どのような点を重視するのかなど,おおよそ見当が付かなかった。

 そこで,多角化の際にはよくあることだが,中途で技術者を採用しようという話になった。そのメディア媒体を利用する完成品が分かる技術者だ。

 その素材メーカーは中堅であったものの,大手の完成品メーカーとは取引がほとんどある。話を聞いた筆者は,転職した後でもなるべく問題が起きないような技術者を探したのだが,なかなか見つからない。ようやく見つけた技術者は,よりによって素材メーカーと大きな金額の取引をしている完成品メーカーに所属していた。

 内密にその技術者に接触したところ,喜んで素材メーカーに転職したいとのこと。素直に転職したのでは,完成品メーカーが怒るのは目に目えている。下手をすると,今後の取引に影響が生じる可能性もある。

一旦,海外に逃がす

 そこで,素材メーカーの人事担当者と策を練った。その技術者には,学生時代に海外留学の経験があった。筆者たちはそこに目を付けた。完成品メーカーに対しては,このような理由で退職願いを出してもらった。「留学時代に行っていた研究をもう一度したい」。

 技術者には退職してもらった後,元の留学先の大学に入学。その後はまず,素材メーカーの海外提携企業に就職してもらった。実際にはそこでもメディア媒体の研究を行ってもらい,ほとぼりの冷めたころに日本に帰国。その後は,当初の予定通りにプロジェクトで活躍してもらった。

 こうまで苦労して転職をしなくてはならないのか,と思われるかもしれない。多くの人を巻き込み,またコストも掛けながら転職したのには,もちろん理由がある。一つは採用する側である素材メーカーの人事担当者の熱意だ。その人事担当者は単に下請けのように上から言われて人を探すのではなく,これからの自社が目指すべき道,そしてそれを実現するためにはどのような人材が必要かを,自分がよく理解した上で行動していた。自分で考えた結果が,苦労してでも完成品メーカーの技術者を獲得するということだったのである。

 もう一つの理由は,採用される側の技術者のやる気だった。その時点で,大手の完成品メーカーに数年勤めていたのだが,お役所的な閉塞感のある職場に辟易としていた。彼は海外留学によって,海外の何事にもオープンな環境にあこがれていて,実は他社から声が掛かるのを待っていたのだった。さらには彼が独身だったこと,たとえ完成品メーカーと話がこじれたとしても物怖じしないような性格に見えたこと,などが筆者たちに大胆な計画を実行させるに至った理由だ。

 このように,人事担当者や転職をする人に熱意があれば,困難を乗り切る策はいろいろある。そして皆がハッピーになる,と言って今回は締めくくろうと思ったのだが,後日談がある。当初,プロジェクトではつらつと仕事をしていた技術者だったが,数年経ったころ連絡があった。海外留学中に趣味の世界で取得したライセンスを活かせる仕事はないか,という相談だ。そのライセンスとは,技術開発の世界とは異なるものだった。

 結局彼は非常に自由人であった。転職した素材メーカーもそれなりの古い体質を持っており,彼の性格には合わなくなってしまったようだ。今から思うと,現在のようなベンチャーブームだったならば,ベンチャー企業の方が体質的にあっていたように感じる。