盛田氏はウォークマンの構想が持ち上がった当初から、若者を主要な顧客層として想定していた。音楽が生活の一部となっている若者にこそ、オーディオのある部屋だけでなく、いつでもどこでも音楽を楽しめるというウォークマンへの需要があると考えていたのだ。

 そこで広告宣伝や販促でも若者にターゲットを絞った。象徴的なのが新製品発表の方法である。新聞社向けの記者発表とは別に、雑誌向けの発表会を催した。『ポパイ』に代表される若者向けの情報誌が台頭している時代であり、それまでメディアの主流だった新聞だけでは若者というターゲットに十分に訴求できないと判断したためだ。

 新聞社向けの発表がホテルに記者を集めて説明するという通常スタイルのものだったのに対し、雑誌向けの発表会は東京の代々木公園で開催するというユニークなものにした。銀座のソニービルに集まった記者をバスで代々木公園に運び、全員にウォークマンを配る。記者がヘッドホンを装着して再生ボタンを押すと、音楽とともに商品説明が流れる。その記者たちの目の前で、ウォークマンを着けたアルバイトの若者が二人乗り自転車に乗ったり、ジョギングをしたり、エアロビクスをしたりするデモンストレーションを行った。この説明もすべてカセットテープに録音されている。各記者のヘッドホンで再生される音声以外は無音の、極めて静かな発表会だった。

 前述したように新聞からはほとんど黙殺されたが、雑誌の反応は大きかった。多くの雑誌が新製品として紹介するだけでなく、さまざまな記事にウォークマンを小物として使い始めた。ソニー側から働き掛けたケースもあるが、「ウォークマンは新しい若者のライフスタイルを象徴する」と雑誌側が判断して誌面で採用したケースも多い。

 中でもインパクトが大きかったのは月刊誌『明星』のグラビアページだった。当時のトップアイドルである西城秀樹がウォークマンを着けて、ローラースケートを楽しむ写真が掲載されると、ファンが一斉にウォークマンを買いに走ったという伝説もあるほどだ。「若者の情報源は新聞より雑誌にある。雑誌の記者にこそウォークマンを十分に理解してもらい、大いに情報を発信してもらおう」という戦略が功を奏し、発売から約一カ月後に売り上げがめきめきと伸び、初回生産ロットが売り切れるほどになった。

 若者に買ってもらうということを想定すると、価格も高くてはいけない。初代ウォークマンの価格は盛田氏の提案で3万3000円となったが、技術部門が数字を積み上げた時点では5万円以下では難しいという判断だった。しかしせっかく顧客をターゲティングして広告宣伝や販促を行っても、価格がちぐはぐでは効果は望めない。まず価格ありきで開発陣が必死にコストダウンを重ね、目標を実現した。そしてこの価格は後継機にも継承されていった。

特許は独占しない

 ブランドを確立するときには、意匠権や特許でそのオリジナリティーを守るのが有効であることは言うまでもない。しかし実はウォークマンでは技術的な特許を一つも押さえていない。

 ウォークマンの開発では独自技術といえるものは少なく、当時の大手メーカーの技術力があれば追随できるものだった。しかし唯一独自の技術があった。ヘッドホンのミニジャックをステレオ対応の三芯にしたことだ。この技術を特許として出願すれば、携帯型カセットプレーヤーの市場をウォークマンで独占することも可能だったかもしれない。

 しかし結果的にソニーはミニジャックの特許を独占せず、仕様を他メーカーにも公開する道を選んだ。公開して他社が参入することによってカセットプレーヤーという市場が確立し、成長すると判断したからだ。かなりの議論を経て、最終的には盛田氏が決定した。

 予想通り他社が次々と「類似品」を…(次ページへ