これら二つのような「とても便利で超人的な道具」の普及は、個人の利便性を重視した結果、他人との関係性や社会との関係性を犠牲にした事例といえるかもしれません。「そもそも論」でいえば、道具とは私たちを幸せにするために人の知恵が作り出したはずのものです。人間は社会なしでは生きていけません。その社会性を犠牲にする装置というものは、本来あってはならないものでしょう。

周りの心配

 人と人との関係性という視点では、本来の道具とは関係性を円滑にするものでこそあれ、反対方向のものを生み出す際には少なくとも、作り手側に大きな「ためらい」や「罪悪感」がなくては困ってしまいます。冒頭で指摘したように、車とは道路脇に人柱を立てつつ、地球を痛めつけながら、それでも走るという原罪を背負った代物です。車が特に顕著なだけで、多くの道具は程度の差こそあれこの原則から外れることはできないでしょう。

 私たちの国は、戦後の焼け野原から奇跡の復興を成し遂げて、ここまで豊かな暮らしぶりを手に入れるに至ったわけです。ようやく安全とか環境とかいう贅沢な問題を技術課題として真剣に取り上げられる段階にまで社会が成熟しました。車間距離をレーダでモニタリングしたり、赤外線で暗闇の歩行者を高感度で検知したりするなど、先端の電子技術が交通事故の未然防止に貢献し始めています。ハイブリッドカーなどの超先進の省エネ技術は地球全体の未来の心配に応えようとし始めています。

 衣食足りて礼節を知る。人の利便性という直球課題から徐々に卒業して、人の命~地球の命という少し贅沢な技術課題に取り組めるようになったというわけですが、ちょっと待ってください。人と地球の間に、家族とか近所とか地域とか会社といった集団社会があったはずです。いきなり究極的な「地球様」の心配をする前に「世間様」、すなわち周りの人の心配をするべきじゃないか、というのも理屈じゃないかと思うわけです。

 その意味において、私たち日本人の社会は今後の世界を牽引するにふさわしい素養を持っているように思います。よく言えば「調和型の社会」、場の空気を乱すことを嫌い、自分の都合や主張を過度に強く押し出すことを大人気(おとなげ)ない振舞いとみなす謙譲の価値観があります。悪く言えば、長いものに巻かれて責任者不在の構造。談合や根回しで、なんとなく流れで意思決定する集団の力学とも言えるでしょう。「最近の若い人はそうでもない」というフレーズはいつの時代にも言われてきたことですが、世界の常識と比べるとこのような特徴を依然として強く持ち続けているように思うのです。

世界に何かを

 自動車に戻って考えてみましょう。道を譲ってくれた後続車に対してハザードランプで感謝の気持ちを表現するマナーがあります。交差点では対向車にまぶしくないようにヘッドライトを消す習慣がタクシーなどではいまだに受け継がれています。これらは海外に出ると紛らわしい行為として見なされ、下手をすると警官に注意されるような場合さえあるのです。日本のドライバーにこのように周囲との調和を図りたいという潜在的なマグマが溜まっているのだとしたら、メーカー側はウンウン頭をひねってこのマグマを受ける絶妙なカラクリを考案する必要があるのではないでしょうか。

 敢えて大きな話をしましょう。資本主義の競争社会ですから「売れてナンボ」の世界に陥る理由はいくらでも挙げられます。購入する車のオーナーが気に入るポイントこそが、企業側の生き残りのための最大の関心事になるでしょう。車であれば、オーナーが楽しく運転できたり、楽に移動する空間を提供できたりするのです。あくまでお金を払う人のため、というのがこれまでの考え方でした。

 そこで先ほどの「衣食足りて礼節を知る」はずの私たちの出番です。豊かな社会を実現した、元来調和志向の日本人が、私たちならではの価値観に則って世界に何かを打ち出していかなくてはならない。そういう時間帯にたどり着いてしまっています。私は、それを実践する際のヒントの一つが「全体調和」の価値観にあると思っています。このあたり、詳しくは拙著で書かせていただいていますが、一言で言うと「地球の心配も大事だけれど、その前に周囲への配慮をすべし!」 トラフィックへの配慮をする自動車と運転手を作り出す文化圏があるとしたら、それは我が国であれかしと思うのです。

擬人化の才能

 電脳世界にも似たような構造が見られます。例えば、アバター…(次ページへ